この一念の違いで 何もかも全て変わる
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年8月30日】今年の8月19日の明け方、発正念をしてからベッドに入った私はまったく眠気がなくゴロゴロしていると、突然気分が悪くなり吐き気がしました。トイレに行って苦い酸味のあるような液体を吐き出してから、ベッドに戻りましたが、しかし、またお腹の調子がおかしくなりトイレに行きました。

 また、吐き気がやって来ました。今度は昼頃食べたものを戻し、苦くて辛くてのどを刺すような感じでした。吐き出してもやはり気分が悪く胸が非常に苦しくなり、激しい動悸を感じ極度の脱力状態に陥りました。私は絶えず法を正す口決を念じて、師父に助けを求めました。

 しばらく念じましたが、さらに激しいものが襲って来ました。今回は、嘔吐したり下痢したりしました。「どうしよう? どうしようか?」と戸惑いました。ちょうどこの日は家中、一日ずっと断水していました。

 修煉して20年余り経ちますが、これまで体に消業はほとんどありませんでした。師父は「人間の身体は病気があるべきものではなく」[1]と説かれていたため、修煉したその日から、「病気」という概念は私の中で根絶されました。毎回、体の具合が悪い時、あるいはどこかが痛い時、私はいつも気にせず、その結果、毎回とても早く回復することが出来ました。

 しかし、今回はとても激しくやって来ました。胃腸が暴れまわってとても抑え切れず、鼻水も涙もどんどん出て来て、ピンポン玉や葡萄の大きさくらいの鼻水の泡が目の前に出ても、それを拭く力すらありませんでした。一方、私の脳裏には、2週間前に亡くなった若い同修の顔が浮かんで来ました。「彼女は全身がずいぶん浮腫んでいて、相当辛かっただろう」と思いました。そして、明慧ネットに報道されたある一人暮らしの同修が家で亡くなっても、誰も気付かなかったことを思い出して、「自分も同じ一人暮らしではないか」と思ってしまいました。

 幸い、このような考え方に対して、すぐに警戒をしました。「何を考えているのか? 自分は大法弟子ではないか? 師父は私の側におられるし、体に師父が植え付けて下さった法輪もあって、宇宙の神々は私を見ておられる。私は師父に恥をかかせるような事をしてはいけない」と思いながら、ゆっくり背筋を伸ばし、そして、顔をきれいに拭きました。

 背筋を伸ばしたその瞬間、お腹がスッーと冷たく感じ、すべての辛い感覚が影も形もなくなり、何も起きていなかったようになりました。とても不思議でした。部屋に戻って時計を見ると、すでに30分が過ぎていました。

 横になってから、私は考えました。1回目師父に助けを求めた時、なぜ効き目がなかったのでしょうか? どうして、師父は私の側にいらっしゃると思った途端によくなったのでしょうか? と思いました。なるほど、最初の一念は人間の思い、常人のもので、自分の辛さを終わらせようとしたものに対して、2回目の一念は大法弟子としての正念だったことが分かりました。

 「どうしてこのような災いを招いたのでしょうか?」とさらに内に向けて考えました。自分はいったい何をしたのでしょうか? 私は夜中12時の発正念まで起きていられるため、いつもテレビをつけていました。新唐人の番組ではありますが、しかし、あの時間帯はいつも連続ドラマが放送され、私は真剣ではないものの、ついつい見てしまいました。

 映画やテレビドラマは人の心を虜(とりこ)にするものです。修煉者としては情を取り除かなければならないのに、どうしてこのようなものを自分の頭に入れるのでしょうか。旧勢力に隙きに乗じられるのも当然な事ではないでしょうか。このことで私は、「修煉って本当に厳粛な事で、いささかの油断も許されないものである」と、そう思いました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作: 『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/8/23/352876.html)
 
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