文/中国の青年大法弟子
【明慧日本2017年9月25日】多くの新婚夫婦と同じように、私も結婚当初、いくつかの生活習慣の不一致で、夫と何度も衝突したことがあります。私は彼の怠惰でだらしなさ、家庭の事を気に掛けない部分が気に入りませんでした。特に、私は毎日朝から晩まで働き詰めでいるのに対して、彼は仕事の性質上、ほとんどの時間を家で過ごしているにもかかわらず、多くの余暇をネットサーフィンやくだらない動画を見たり、ゲームをしたり、また、朝寝坊することに費やしてしまい、家事を手伝うどころか、自分自身の衛生面もきちんとできていないことに、私はずっと不快感を抱いていました。
これらの問題で苛立ちを覚えた私は、2人の間でもしかすると、すり合わせの期間が必要なのかもしれないと思い、彼自身も徐々にそれらの悪習慣を直していくと言ってくれたので、法輪功修煉者として相手を包容すべきだと思い、不快感を抑えました。しかし、時間が経つにつれて、夫は改善するどころか、ますます輪をかけて怠けてくるのを見て、私は堪忍袋の緒が切れ、彼と言い争いになったこともありました。
幸い、修煉者である私はトラブルの中で内に向けて探し、自分の不足を改めるべきだと知っているので、口論の後にいつも、心性をきちんと守ることができなかったことに後悔を覚え、自ら夫に謝りました。夫も私の能動的な反省と詫びるのを見て、自分の間違いに気づくことができました。ですので、他の夫婦と違って、私たちの口論は夫婦関係やお互いに抱く感情に影響を及ぼしませんでした。
内に向けて探すことによって、私は夫婦間の毎回の対立を解消することができましたが、彼のことが気に食わない考えが、どうしても出てくるのです。彼が一日中ぶらぶらと無駄に月日を送っていて、なすこともなく、利己的な怠け者で良いところが一つもないと感じてしまい、どうしても彼を見下してしまうのです。
このような考えは修煉者が持つべきものでないだけでなく、2人の婚姻関係をも破壊しかねないと思い、私は毎日このようなよくない観念を排除するように努めました。しかし、夫のよくない行為を目にする度に、よくない観念がまた噴き出してきました。
ある日、師父の以下の説法を読んで私はやっとあることに気づきました。「将来の生命は他人のために考えるもので、今までの生命は私(し)のためのものです。(拍手) 自分の利益のためにほかの生命のことをまったく構わない生命がいますが、このことはこの世でも余すところなく表されています。自分のうっぷんを晴らすために、相手をどんなに傷つけたとしても、相手のことをまったく考えていません。この私(し)において非常に悪く表している人がいます。専ら人をいじめたり、いつも他人のことを気に食わない人がいます。そういう人にこの権力を与えた人は誰もいません。皆さんはこのようにしてはならず、大法を修煉している人は誰もこのようにしてはいけません」[1] 。夫のことが気に食わない心は自我への執着(私心)によるもので、それが生活の中ですでに慣習的なものになってしまったため、気づくことができなかったのです。
振り返って見れば、彼の怠惰やしまりがなく、向上心がない部分が気に食わないと思ったのは、自分の基準で彼を量ったのではありませんか? 彼が自ら進んで家事を行ない、家庭のことをもっと気に留めるようにと願ったのは、自分がもっと多くの家事をしなければならず、家庭のために多くの気力を使わなければならないことを恐れていたのではありませんか? これは利己心ではありませんか? 毎日無駄に時間を費やし、ネットサーフィンやゲームしか知らず、彼が気に入らないと思ったのは、一見、彼のために思っているように見えますが、実際のところ、私は彼に修煉者である自分と同じことを課そうとしており、寛容さが足らず、十分に相手を尊重していなかったのではありませんか?
さらに、宇宙の中の広大無辺な世界を考えてみると、そこには無数の衆生がいて、多くの生命は相生相克しながら共存していますが、宇宙は強大な包容力で彼らの存在を認めています。また、慈悲で偉大なる師父も私のような遅れていて、あまり精進していない弟子を嫌がっておられません。これこそがまさに真の「他人のため」と「無私」の境地です。
さらに内に向けて探していくと、夫に対する今までの我慢は修煉者が修めるべく真の忍ではなく、修煉者である自分身分を憂慮した上での「仕方がない忍」であったことに気づきました。師父はこのようにおっしゃっています。「まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[2]
これらの執着心や私心を発見してから、私は根本から夫に対する気に入らない心を取り除くことができました。その後、私たちは再びこれらのことで、トラブルになりませんでした。私は夫の気が向くままにさせてあげて、徹底的に彼を尊重するようにしました。彼が家事をしたくないので、私は多くの家事を一手に引き受けても、そのことで不満や辛い思いもしなくなりました。修煉者はまさに「苦を嘗めるをもって楽とす」[3]を学びました。
法輪大法に導かれて、私は次第にどのようにしてもっと良い人になれるかが分かり、結婚早々、夫とのいわゆる「すり合わせの期間」を乗り越えました。多くの人は不思議に感じています。なぜなら、通常の大衆の観点から見れば、このようなトラブルで少なくとも2~3年間言い争う夫婦もいれば、一生涯において喧嘩し続ける夫婦もいて、甚だしきに至っては離婚してしまう夫婦もいます。しかし、私たちは短い時間で仲睦まじくなりました。
すべては大法のおかげです。大法によって私は心の容量を拡大させることができて、さらに深い法理が分かるようになり、もっと良い人になろうと心の底から願うようになりました。まさに師父のおっしゃる通りです。「大法修煉者は自分自身の私心に気づいていれば、徐々に克服してください。それに気づいていれば、あなたは修煉の中でまた一歩を踏み出したことになります。修煉していない人はこのことに気づかないのです。しかも、自分が利己的であるかどうかも考えないのです。修煉者だけが、常に自分自身に振り向いて、内に向けて探しています」[1]
法輪大法は社会にとって本当に「百利ありて一害なし」の功法です。大法を修煉すれば、人々は健康を手にすることができる上に、人格も高尚になり、人間関係もよくなります。家庭が睦まじくなれば、社会も自ずと調和がとれるようになります。
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「忍とは何か」
[3] 李洪志師父の詩: 『洪吟』「その心志を苦しめる」