遼寧省鞍山市の於宝芳さん迫害死し 夫も収監
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 【明慧日本2017年9月28日】遼寧省鞍山市の法輪功学習者・於宝芳さんと夫・王殿国さん、息子・王宇さんの一家3人は7月4日夜、警察官らが戸を叩いてから家に侵入し不当に連行され、家財を押収された。そして、於宝芳さんは鞍山市女子留置場に拘禁され、7月17日、迫害されて亡くなり、夫の王殿国さんもいまだに拘禁されている。

 於宝芳さんが息を引き取ってから1時間後になって、警察官らは息子の王宇さんを病院へ行かせ、母親と最後のお別れをさせたが、遺体をチェックすることは許さなかった。8月8日、王殿国さんが逮捕令状を出されたため、いまだに家に帰って葬式をきちんと行うことができていないことを家族は知った。

 責任者である関という主任は、「留置所の担当者は於宝芳を長大病院へ送って経過観察し、救助を試みたので、正常な死亡であり、留置場側には責任はなく、賠償は存在しないが、1~2万元の補償がある」と公言した。王殿国さんと息子の王宇さんはこの説明に同意しなかった。於宝芳さんは留置場に拘禁されている期間に亡くなったのだから、留置場側に責任がある。もし於宝芳さんに重病があったなら、留置場はなぜ於宝芳さんを受け入れたのか?! また、病気の状態が現れたのなら、なぜすぐに家族に連絡しなかったのか? なぜもっと早く病院で治療を行わなかったのか?! 病院は危篤の救急処置中に、なぜすぐに家族に通知しなかったのか?」と問い正した。

 以下は、今回は一家が迫害された悲惨な境遇を、於宝芳さんの息子・王宇さんが述べたものである。

 警官が戸を叩き家に侵入し 不当に一家を連行する

 私は王宇と言い、母は於宝芳、父は王殿国です。今年7月4日夜8時過ぎ、たくさんの警官が家の玄関の錠を砕き壊した後、家の中に押し入ってきました。警官らは家の中に入った後、すぐに父親と母親、私と家に来ていたおばの4人を居間のソファに座らせて動くことを許さず、同時に、家の中のものを引っ掻き回し、家宅捜索をしました。

 最初から最後まで、警官らは警察手帳や捜査令状を私たちに提示することなく、家を滅茶苦茶に引っ掻き回していきました。私は警察官の制服を着ている男に、「あなたたちはどこから来たのですか?」と聞きました。すると、警官は「鉄西分局からだ」と言いました。私たちは家のものを奪い取らないようにと伝え、住居侵入罪ではないのか、と伝えたが、警官らは聞く耳を持たず、さらに一通り引っ掻き回してから、立ち去りました。

 その警官は5人以上おり、その内の2人は特殊警察部隊の服装をしており、手にはスタンガンを握っていました。私たち4人に手錠をかけようとしたので、私と父親が抵抗すると、私を床に押し付け、私の腕を無理やり体の後ろに回し、手がひどく痛み、そして手錠をかけられました。今度は数人が父親を床に押し付け、非常に乱暴に、無理やり両手を背中に回して手錠をかけたので、父親はしきりに痛みを訴えていました。

 当日の夜9時過ぎになり、私たち4人は階下に止めてあったパトカーに無理やり乗せられ、永楽警察署に連れて行かれました。私たち4人が家から階下に連れ出された時も、何人かが引き続き家の中のものを奪い取っていました。

 拷問にかけられて 返答を強要される

 父親は1人で警察署内の部屋に閉じ込められ、足かせと手かせをはめられ、地面に固定された椅子に座らされました。私は別の部屋に閉じ込められ、やはり足かせと手かせをはめられ、地面に固定した椅子に繋がれました。母親とおばは警察署内の鉄の檻に入れられました。

 夜半過ぎになり、眠くなってきた時に警察署の警官が訊問を始め、私の話を紙に記録し、私が答えないと、制服を着ていない男が私の髪の毛をつかみ、力を入れて頭を後ろに引っ張ったのであおむけになり、顔が上を向いたまま呼吸困難になりました。両足の足首とすねは数日前から腫れていました。その時、左足の親指は爪の周囲が炎症を起こし、ときどき親指に痛みがありました。すると、警官が力いっぱい私の左足の甲を踏みつけ、別の制服を着た警官が右足の甲を踏みつけながら、尋問の返答を強要しました。

 警察署と拘置場で二度、警官は不当に事情聴取し、紙に記録した内容は、私が話した内容と多くの所で違っており、警官らは私が話した内容を歪曲していました。当時、警察署にいた時、眠さと恐怖に襲われていたために、強要された口述書にサインし、拇印を押しました。留置場にいた時も、迫害され、本心に逆らって拇印を押し、サインしました。

 警察署で一夜を明かし、翌日の7月5日午後、警官らは私たち4人にパン(100グラム)とミネラル・ウォーター(500ml)を与えました。

 7月5日、およそ午後6時過ぎ、私たち4人はパトカーに乗せられ、鞍山市第2留置場に連れて行かれて身体検査が行われました。身体検査が終わると、父親は第2留置場に拘禁され、母親は鞍山市女子留置場に拘禁され、私とおばは鞍山市拘置場に連れて行かれて、私は15日間、拘留されました。

 7月5日夜、私たち4人が警官に連れられて警察署を出た時、私のおばさんら親族が警察署の入り口で待っているのが見え、お互いに相手の姿を見かけると、話をしました。7月18日、私が拘置場から出された後、おばさんは私に次のことを話しました。7月5日夜、私たち4人が警察署から連れ出されたのを見たその晩、おばさんは携帯電話の番号を警察署の警官に教えました。次の日の7月6日の昼間、鉄西分局が下した私の両親の拘留通知を警察署に取りに来るように、電話がかかってきました。7月7日の昼間、おばさんは警察署に通知2枚と、さらに、私の母親の服を取りに行きました。その時、おばさんは警官に私を拘留することに対する通知を要求しましたが、警官は「ない」と言いました。もともと不当な拘禁だったからでした。

 7月5日夜、私は鞍山市拘置場に拘留されました。数日後、拘置場内の電話を使っておばさんに電話をかけると、おばさんは私に会いに来る、と言いましたが、おばさんは来ませんでした。7月18日、拘留期限が終わり、拘置場から出ておばさんに会った時、おばさんは私に次のことを話しました、私と電話で話した数日後、おばさんは私に会いに来て、身分証と電話番号を拘置場の人に見せると記入しただけで、拘置場の人員は私に会わせてくれず、そのため、その日は会えなかった、ということでした。

 迫害死されても 遺体を見せてもらえず

 7月17日午後4時半過ぎ、拘置場内で食事の準備をしていた時、女性警官が来て、「あなたのお母さんが病院に行きました。親戚で誰かあなたを引き取りに来れる人はいますか?」と尋ねました。そこで私は「おばさんが来てくれると思います、おばさんは父の妹です」と言いました。私がおばさんの電話番号を伝えると、女性警官は自分の携帯電話におばさんの電話番号を記録し、去って行きました。

 しばらくして、何所長が私を事務所へ連れて行き「お母さんに会いたいか?」と聞きました。そこで私は「会いたいです」と答えました。すると、何所長と警官2人が私に足かせと手かせをはめてパトカーに乗せ、私を鞍山市長大病院へ連れて行きました。

 私が母親を見た時、母親は長大病院のICUの病室のベッドの上にあおむけに横たわり、顔に死灰色が表れており、首の所から何本も呼吸器の管がつながっていました。この時、女性医師が私に「お母さんの心臓は動きが止まっており、呼吸しておらず、瞳孔が開いています」と言いました。そう言いながら、女性医師が手で母親の両目をあけたので、母親の瞳孔が開いているのが見えました。私は「母親の胸はまだ起伏していますが、まだ呼吸しているのではないですか?」と医者に尋ねました。すると医者は「これは呼吸器の作用で、家族に死者の見納めをさせるために行っているのです」と言いました。

 この時、もっとよく母親の遺体を見たいと思い、母親の手を触り、なぜなら私はもう二度と永遠に母親の手を握れないと思ったからです。警官は私に母親の遺体を見させまいとして、私を無理やりICUから追い出しました。母親の遺体を見てから、無理やり病室を追い出されるまでの時間は、わずか数分間という短い時間でした。

 病室を追い出された後、母親の生前の情況を医師に尋ねると、女性医師は、「於宝芳は午前中に病院に運び込まれ、当日午後2時50分、突然危篤状態になり、すぐにICUに運び救助を試みたが、40分間の救助も効果がなく、2017年7月17日午後3時半に死亡した」と言いました。さらに、母親の死因を尋ねると、女性医師は、「死亡原因は確定できず、ただ言えることは心臓が止まったことが死亡の原因だ」と言いました。

 今回の母親の事の責任者である刑務所内支隊の関という姓の主任が私に、「まもなく担当の者が於宝芳の服を買ってくるので着せた後、遺体をすぐに葬儀場へ送る」と言いました。拘留場に戻された後、「母親の葬式の事で父親に会って相談するために、外出しなければならない」と申し立てました。

 7月18日午後、関主任は私に、「早めに釈放することはできず、数日の休みを取る処理をして、母親の葬式をすることしかできない」と言いました。しばらくして、私は第2留置場に連れて行かれ、父親と会いました。私と父親は関主任に、「監察医が母親の遺体を解剖して、死因を確定することに同意しません」と言うと、「私と父親のどちらかの同意だけでは無効で、私と父親は共に、監察医が母親の遺体を解剖することに同意することしかできない」と言い、その後、私は釈放されました。

 当日の午後、私は家に帰りましたが、玄関の取っ手は既に外側から破壊されており、ロックコアもなくなっていましたが、玄関はしっかりと閉じられており、開きませんでした。不当に連行されたあの日、父親は上着やズボンをはくことをも許されず、父親と母親と私は共に鍵もお金も持ち出せませんでした。私がおばさんに電話すると、しばらくしておばさんがやって来て、一緒に警察署に行き、玄関のドアを開けて欲しい、と申し出ましたが、警察官は取り合いませんでした。警察署を出された後、私たちは家に戻り、鍵を開けてくれる人を探して証人になってもらい、家の中で何かが起こるのを防止しようとしたのですが、警察官が来ることも関わることもありませんでした。

 その日の夜、おばさんは500元を払って人を頼み、鍵を開けて、鍵を交換するしかありませんでした。玄関の内側は損壊しておらず、鍵ははずれておらず、鍵自体に破損はないと説明を受け、私とおばさんが家の中を見てみるとめちゃくちゃで、多くのものが鉄西分局の警官に奪われ、盗まれ、お金もなくなっていました。さらに、家の中ではいやな匂いがし、なんと、冷蔵庫のコンセントが引き抜かれ、冷蔵庫の扉が開けられ、中のご飯やおかず、肉、魚などの食べ物がすべて腐っており、いやなにおいを発しており、食べ物の上にはたくさんの蛆虫がいて、床にもたくさんの蛆虫が這っていました。冷蔵庫が端の方にどかされ、床板がめくられ、ソファーもひっくり返され、ソファーのカバーも破られ、多くの鍵が警察官に持って行かれ、父親のズボンのお金、母親のバッグの中、家の中、ベッドの中に置いてあったお金も、すべて警察官に奪われていました。

 疑問点が続出

 於宝芳のことに関する責任者である刑務所内支隊の関主任に、私たちは会いました。第2留置場の一室で、関主任は父親とおばさんの前で、「於宝芳の死因は糖尿病と高カリウムによるものだ」と言い渡しました。私たちがこの結果に同意しないでいると、関主任は、「用紙にサインを拒否すると書くこともできる」と言い、私たちに同意するかどうか聞いて来たので、私たちは「サインを拒否する」と書くことに同意しました。関主任は父親に、「お前と家族は留置場内での於宝芳の映像を見ることができる」と言いましたが、私たちが見れたのは、7月5日の夜に母親が監房に入れられた映像と、7月6日の午前中、さらに、7月16日の昼間、そして、7月17日の午前中およそ9時15分まで、母親が監房から抱えられて出て行く映像だけでした。なぜなら、関主任たちの仕事が終わり帰る時間になったからです。

 関主任の説明は、留置場の警官は於宝芳を長大病院に送り、経過観察し救助を行ったのだから、於宝芳の死亡は正常な死亡に属するので留置場に責任はなく、この件に関して賠償も存在しない。しかし、1、2万元の補償ならある、というものでした。私たちはその説明とそのやり方に同意しませんでした。母親は留置場に拘禁されている期間中に死亡したのですから、留置場が責任を負うべきです。しかし、案件処理部門は第2留置場で於宝芳の身体検査をした時に合格とし、拘禁の条件に符合しているからといって、留置場側は受け入れたはずですが、もし糖尿病で身体検査が不合格であったなら、留置場はどうして受け入れたのでしょうか? また、病気の状態が現れた時に、なぜすぐに家族に連絡しなかったのでしょうか?! さらに、なぜもっと早く病院に送って治療しなかったのでしょうか?! 病院は危篤の救急処置中に、なぜすぐに家族に連絡しなかったのでしょうか?! さらに、母親がなくなって1時間経ってからやっと通知をした。それで私は病院で母親との最後の別れをしたのです?! 母親を病院に送った後の治療に関して、救助している間のビデオ証拠は何もありませんでした。これらすべてが通常の考え方にまったく符合せず、さらに疑問点が続出していました。

 先月8日、父親に不当に逮捕令状を出されたので、父親はまだ家に帰って母親の葬式を行えないことがわかりました。

 わずか半月の間に、人の生死離別の苦しみと困惑を味わい、平穏無事だったのに家も家族も失いました。突然襲ってきた母親のこの怪死に直面すれば、誰でも、「いったいなぜ、このような悲劇の被害者になってしまうのか」、「いったい誰がこの悲劇を引き起こしたのか」、「いったい誰が母親を死亡させたのか」と思うはずですと、於宝芳さんの息子・王宇さんは疑問点を訴えた

(註:法輪功學習者を迫害している主要な責任者らの情報は、中國語のページを參照)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/9/19/353897.html)
 
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