【明慧日本2017年10月26日】刑務所内で行われている灌食とは大変辛いもので、本人が拒否しても無理やりに管を鼻腔から食道を通って胃の中に挿入し、直接に液体の栄養物を胃の中に注ぎ込むものである。本来は命を救命する手段であるが、江沢民勢力が法輪功を迫害する中で実施した「打ち殺しても責任を負わず、自殺とみなし、身元を調べず、直ちに火葬する」の政策の下で、中国共産党の指令の下に留置場や労働教養所、刑務所内では、断食で迫害に抗議した法輪功学習者に対して行われている。この灌食は、医療上でいう救命する目的のためではなく、故意に法輪功学習者を苦しめ、虐殺する手段の一つとして、医療従事者でない者が強行に行うものである。
本文は、明慧ネットで報道した遼寧地区の法輪功学習者を致死させた実例から整理したもので、これらの実例を通して、中国共産党の迫害の程度を推し量ることができる。もっと多くの人々に中国共産党の邪悪さをはっきりと認識できるように、再々騙されないように、私達はこれらの痛ましい実例を再度公開し、さらに、多くの善良な人々に善悪をはっきりと見極めるように強く望むものである。
一、孫蓮霞さんは大連市労働教養所で野蛮に灌食され、管を挿し込んでいた中で、鼻腔と食道の粘膜に損傷をもたらした
2000年の秋、大連市の法輪功学習者・孫蓮霞さんは、法輪功の無実を訴えるために上京したが、途中で警官に連行され、大連市労働教養所に拘禁された。
2000年12月18日、孫さんは断食して迫害に抗議したため、野蛮にも灌食された。管を挿し込む過程の中で、鼻腔と食道の粘膜に損傷を受け、鼻孔から出血し塞がれたため、孫さんは口を開いて呼吸するしかなかった。喉、気管は炎症を起こし、絶え間なく咳が出て、吐き出したのはすべて痰と血膿だった。警官は危篤状態の孫さんの最も苦しい最後の2時間までも、迫害の手を緩めなかった。2001年1月16日、孫さんは迫害により亡くなり、享年50歳であった。
二、李秀梅さんは大連市姚家留置場で、外へ引きずられて灌食され、帰らぬ人に
大連市の法輪功学習者・李秀梅さんは、2001年12月3日の晩、沙河口区派出所の警官に連行され、一晩中鉄の柵の中に閉められた後、大連姚家留置場に拘禁された。
李さんは留置場に入れられた後、すぐ断食して迫害に抗議した。留置場の警官は李さんを外へ引きずって灌食を行った。精も根も尽き果てて顔色が青紫色になり、息が切れた様子の李さんは、戻された時に「彼らは私の鼻をつねって、口を塞いで、私を窒息させようとした。また、中に注ぎ込まれる物の中に不明薬物を混ぜ入れられ、するとすぐに意識がはっきりしなくなります」と話したことがある。
翌日の12月16日、李さんはまた外へ引きずられて灌食され、あの日から永遠に帰らぬ身となった。享年58歳であった。
三、金麗鳳さんは葫芦島市留置場で灌食に遭い、管は肺部にまで挿し込まれた
葫芦島市の法輪功学習者・金麗鳳さんは、2001年8月14日、勤務先で連行され、葫芦島市留置場に拘禁された。
2002年2月5日、金さんは断食のやり方で迫害に抗議し、灌食に遭った。2002年2月12日(旧暦の新年)、警官は灌食の管を金さんの肺部にまで挿し込んだため、金さんの口と鼻から血が流れ出て、死に至った。享年39歳であった。
四、寇暁萍さんは鞍山労働教養所で灌食され、顔色、手足の爪が青紫色になり、耐えがたい苦痛を受ける
鞍山市の法輪功学習者・寇暁萍さんは、2000年11月に不当に連行された後、2年の労働教養を強いられ、鞍山労働教養所に拘禁された。
2002年の正月4日目、法輪功学習者は集団断食で迫害に抗議した。その4日後、労働所は学習者に対して野蛮な灌食を行った。多くの学習者は灌食を受けた後、顔色と手足の爪が青紫色になり、全身および五臓六腑の痛みを我慢できず、寝返りをすることができなくなり、人の支えがなければベッドから降りられなくなった。寇さんは病院に運ばれ、緊急措置を取ったが、2日後に亡くなった。享年40歳であった。
五、梁素雲さんは馬三家労働教養所、撫順石油病院での灌食により死亡
撫順市の法輪功学習者・梁素雲さんは、2002年2月、法輪功のために北京へ行き陳情したため、遼寧省の馬三家労働教養所に連行された。
梁さんは迫害に抗議するため断食し始め17日後、撫順石油病院に送られ、手を手錠でベッドの柵にはめられ灌食された。3月17日、梁さんは迫害により死亡した。36歳だった。警官は責任を逃れるため、「梁素雲はビルから飛び降りて自殺した」と嘘を言った。
六、周玉玲さんは撫順市の大沙溝留置所で、灌食の管を肺にまで挿し込まれ、掛け布団で覆われて窒息死する
撫順市清原県の法輪功学習者・周玉玲さんは、2002年8月30日、紅透山派出所の所長・梁大明らに不当に連行された。
周さんは、電気棒で電気ショックを与えられ、平手打ちをされるなどの拷問で「三書」を書くように強制されたが、書かなかったため、当日の午後に清原県の大沙溝留置所に拘禁された。
2002年9月1日から、周さんは断食して迫害に抗議した。7日目後、警官は周さんに対して灌食を行った。9月20日、警官は灌食の管を周さんの肺部にまで挿し込んだため、病院へ運ぼうとしたが、途中で49歳の周さんは掛け布団で覆われて窒息死した。
七、曹桂美さんは瀋陽の龍山労働教養所で何度も高濃度の塩水を注がれ、咳が止まらなくなり、吐血した
1999年7月~2000年12月の間、瀋陽市の法輪功学習者・曹桂美さんは、二度も瀋陽の龍山労働教養所に連行された。そこで、曹さんは40日あまり断食して迫害に抗議したため、教官に何度も高濃度の塩水を注がれた。それによって、曹さんは咳が止まらず、1カ月間ずっと吐血し続けており、骨と皮ばかりに痩せこけて、解放された。2002年の年末、曹さんは冤罪が晴れないままこの世を去った。享年69歳であった。
八、黄克さんは撫順市第1留置場で灌食により死に至る
撫順市石油化工研究院の職員で、法輪功学習者・黄克さんは、2003年3月、不当に撫順市第1留置場に連行された。黄さんは断食して迫害に抗議したあと、強制に灌食され、10日後自宅に戻された。
2003年6月末、黄さんは再び光明派出所の警官に連行され、撫順市第1留置場に拘禁された。黄さんは再度断食して迫害に抗議したため、何度も野蛮に灌食された。留置場に拘禁されて10日目の7月3日、黄さんは迫害により死亡した。31歳の若さであった。黄さんの妻は1999年10月、上京して法輪功の無実を陳情した期間中で、迫害され死に至った。家には幼い子供と黄さんの年配の両親が残された。
九、王秀媛さんは瀋陽の龍山労働教養所で灌食され、胃と食道を突き挿されて破れる
瀋陽市の法輪功学習者・王秀媛さんは、2002年4月19日、待ち伏せていた警官に連行され、2年の労働教養を強いられ、瀋陽龍山労働教養所に拘禁された。
2002年7月、王さんは警官・唐玉宝のひと足で胸を蹴られ、3、4メートル先へ蹴り飛ばされた。王さんはやっと立ち上がった瞬間、唐に顔面を殴られ、血が鼻や目じりから流れたにもかかわらず、唐はもうひと足を加え蹴り上げたため、王さんは鉄の暖房設備に倒れかけ、頭の大きな傷口が裂けて、血がポタポタと流れ出た。
2004年2月、王さんは断食して迫害に抗議した。警官らは毎日野蛮な灌食を行い、注がれたのはすべて高濃度の塩水で、太い管を鼻から胃に挿し込んだ。王さんの胃と食道は突き刺されて破れた。
王さんは虫の息となったため、警官は家族から治療費3千元をゆすり取った後、4月19日に王さんを帰宅させた。数日後の4月27日、王さんは冤罪が晴れないまま無念の中で死亡した。享年52歳。
十、李宝傑さんは馬三家労働教養所で二十数人の教官に灌食され、糊状の練り粉で気管がむせる
盤錦市の法輪功学習者・李宝傑さんは、2004年8月19日、自宅から連行された後、不当に3年の労働教養を強いられ、馬三家労働教養所に拘禁された。
李さんはずっと断食して迫害に抗議した。2005年4月7日、二十数人の教官が同時に李さんに対して灌食を行い、李さんの四肢を押さえたり、腹部に乗ったりして、李さんの鼻を封じて、「開口器」という工具で口を極限に開き、絶え間なく糊状のものを注いだ。注がれたものは李さんの気管に入ってむせたので、教官はさらに李さんの口を押し塞いだため、李さんはまったく息が出来なくなり、4月8日、李さんは死亡した。32歳の若さであった。
十一、盖春林さんは「関愛教育施設」で口から熱湯を注がれ、大やけどして死亡する
撫順市の法輪功学習者・盖春林さんは、2005年4月17日、自宅から連行され、撫順市羅台山荘にある「関愛教育施設」に拘禁された。
2005年5月6日、盖さんの家族は「盖春林は心臓病の発作で死亡した」という通知を受け取った。家族は現場に駆けつけると、盖さんの顔と胸部にやけどの跡があるため、検死を求めた。「食道以下の部位はすべて大やけどし、熟したように皮膚が簡単に剥(む)けており、心臓はすでに白くなっていた。管を挿し込まれて熱湯を注がれたことによるものである」と検死結果が出された。
十二、呉連鉄さんは盤錦刑務所で灌食された時、痛ましい悲鳴をあげた
瀋陽市の法輪功学習者・呉連鉄さんは、2005年4月13日、警官により連行された。同年12月、呉さんは懲役8年の不当な判決を下され、盤錦刑務所に拘禁された。
2006年5月15日、呉さんは帽子をかぶったまま思想改造施設に移送された。中隊長・王魁忠は「お前は政府の人員に会う際に、なぜ帽子を取らなかったのか?」と聞いた。呉さんは「私は犯罪者ではないので、どうして帽子を取らなければならないのですか?」と答えた途端に、王魁忠に平打ちをされ、そして拷問室でトラの椅子に縛り付けられ、夜になってようやく監室に戻された。翌日の5月16日から、呉さんは断食して迫害に抗議した。22日、呉さんは4回も辛い灌食をされ、苦しめられた際に痛ましい悲鳴をあげた。その後、監室に運ばれた呉さんはそこで大量の便血が止まらなかった。2006年5月23日午前3時頃、呉さんは死亡した。呉さんの唇や歯と歯の間、シャツに多くの血痕が付着していた。
十三、王文挙さんは撫順南花園刑務所で、灌食の管を鼻から胃の中に挿し込まれた瞬間、血が鼻から流れ出た
鞍山市湯溝中学校の英語教師で、法輪功学習者・王文挙さんは、2004年10月26日、授業中に法輪功の迫害の真相を生徒に伝えた後、保護者に通報されたため、警官に連行された。
2005年2月、王さんは懲役3年の不当な判決を下され、3月20日前後、瀋陽刑務所に拘禁され、4月の初めに、また撫順南花園刑務所に移送された。
王さんは「厳管監区」に閉じ込められた後、直ちに断食して迫害に抗議した。刑務所の警官は王さんをしっかりとベッドに縛り付け、灌食の管を鼻から胃の中に挿し込んだ瞬間、血が王さんの鼻から流れ出た。
警官は刑務所の高層部の指示の下で、王さんを苦しめた。警官はずっと縄で王さんを縛り付け、指で王さんの目を弾いて睡眠を許さず、口汚く罵り、わざと大小便を漏らさせ、身の下にそのまま放置させた。だんだんと、王さんは意識が朦朧としてきて、大小便も失禁した。2005年4月27日、王さんは亡くなった。38歳の若さであった。
十四、趙寿柱さんは強制的に灌食され、管を挿し込まれて内臓器官が破れる
瀋陽新民市の法輪功学習者・趙寿柱さんは、2008年3月31日晩、新民市留置場に連行された。趙さんは断食して迫害に抗議したため、不明薬物を注射され、無残に灌食された。管を挿し込んだ時、趙さんの内臓器官は破れた。2008年4月20日、趙さんは死亡した。37歳だった。