「病業」に直面した時の二つの誤まった認識
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年11月11日】邪悪が病業の仮相、或いは不慮な事故を利用して、大法弟子の肉体を迫害することは、よく知られています。とりわけ年配の同修の場合、必ず自分の考えを正しくし、自らを修煉者として見做し、「大法修煉者には病気がない」という一念を強固にしなければなりません。正念を持って邪悪の自分に対する迫害を否定し、正念を発することに力を入れ、徹底的に邪悪を一掃し、自分には漏れやまだ放下していない執着心、欲望があるかどうか、それによって、邪悪に隙に乗じられたかどうかを探さなければなりません。

 師父は「もしあなたが本当に修煉し、真に生死の心を放棄することができ、ほかの人に見せるためにそうしたのであって、心の中でなかなか放下できないということではなければ、どんな病気も良くなります。修煉はほかでもなく、人間と神との間の一念の違いだけです。しかし、この一念の違いは、言うのは簡単ですが、しっかりとした修煉の基礎があってやっとやり遂げるものです。本当に力を入れて法を勉強していれば、あなたにそれができます」[1]と、説かれました。

 次に、二つの根本的な問題を話したいと思います。いずれも重苦しい話題です。私から見れば、この二つの根本的な誤りを犯し、それによって、邪悪に迫害され、肉体を奪われてしまう同修の数は少なくありません。一方、一部の病業の仮相に陥っている同修はこの二つの誤った方向に向かっている恐れがあるのです。ここでは、同修達に「必ずしっかり法を学び、深く法を学び、迫害を一掃するように発正念を多くしてほしい」と注意を促したいと思います。

 一つ目の問題。修煉者として、師父を堅く信じて疑わないことが基本です。その信念は決して動揺してはいけません。もし、自分が修めている大法、そして、師父を信じることができなければ、甚だしきに至っては、怨む心が生じてしまえば、どうやって修煉するのでしょうか? 修煉者だと言えるでしょうか? もし、自分の体が長期的に正しくない状態に陥っているならば、自分に問題があるのではないかと内に向けて探すべきではないでしょうか。しかし、自らの問題を棚にあげて、逆に大法と師父を疑ってしまうのは、それこそ大きな漏れではないでしょうか? それはいけないことです。

 二つ目の問題。肉体が邪悪に迫害された場合、体がいくら辛くても、心がいくら苦しくても、決して「死」とか「生きたくない」とかの念を生じてはいけません! この念が生じれば、死を求める事になります! それなら、邪悪は全力を上げて、あなたのこの「願望」を実現させるよう「手伝い」をするのです。彼らはあなたにすぐにでも死んでほしいと願っているからです! 一方、私達は法を正す師に手伝い、自らの神聖な誓約を果たす大法弟子です。一時的な辛さだけで、何もかも放りだしてしまっていいのでしょうか? 

 「私は法輪大法の弟子です。師父以外の誰も私に試練を与える資格はありません! 私は師父と大法に立てた誓約以外、邪悪な旧勢力と交わしたいかなる契約も破棄します。邪悪が私に対してすることなすことを、一切受け入れず、認めず、全般的に否定し、正念で一掃します! 私は引き続いて師父が按排してくださった修煉の道を揺るぎなく歩み、師父についていき、他の大法弟子と一緒に師父が按排してくださった道を全うします。誰も私を途中で離れさせてはいけません!」という一念をしっかり守っていれば、邪悪はあなたを迫害することはできません。

 地元に70代の陳さんと言う年配の同修がいます。陳さんはこの根本的な二つの誤りを犯し、邪悪に肉体を奪われました。とても残念なことでした! 陳さんは真相を伝えることも、人を救うこともよく行なっていました。彼が邪悪に迫害され亡くなった事は、地元に大きな損失を与えました。同修達も彼のことをとても残念に思い、彼を取り戻せなかった事を悔しく思いました。

 陳さんは病気治療のために大法修煉を始めました。修煉後、病気は次第によくなりましたが、その後、病業の仮相はまた現れました。陳さんはこの病業の仮相による迫害をずっと否定することが出来ず、同修達も何度も彼と交流し、彼のために正念を発して励ましましたが、彼はついに法に則って自分の問題を認識することができませんでした。

 陳さんは常人の息子さんを数年前に病気で亡くしました。亡くなる前、陳さんはずっと「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」と息子に念じさせ、そして、彼も一緒に念じて、さらに、師父に息子の命を守って下さるようにお願いしました。しかし、息子はやはり亡くなりました。一方、妻は江沢民を告訴したことで、地元の警官から妨害や脅しを受け、その後、病業の形で邪悪に肉体を奪われました。

 息子が病気で亡くなり、妻も「病気」で亡くなり、自分の「病気」も再発してずっと治らず、そのため、陳さんは次第に大法に対して疑い始めました。そして、交流に来た同修に「自分は発正念をしても、本を読んで役に立たない」と不満をこぼし、最後に、怨む心が生じ、三つのことに対しても消極的になり、最終的には何もしなくなりました。周りの同修はとても心配して何度も交流し、厳しい言葉で彼に警告しました。しかし、彼は心のしこりが解けず、誤った考え方を捨てることはできませんでした。邪悪はますます彼に対して迫害を強めました。彼は身内に勧められ、入院して手術を受けました。手術後、本人は随分良くなったと感じ、それが病気だったと信じ込み、「病院で治療してよかった」と思うようになりました。

 妻が亡くなってから、陳さんはとても意気消沈しました。この時、邪悪は彼の知人を操って、更に彼を妨害しました。知り合いは「陳さん、あなたの家庭を見てごらん……。あなたはもう70代だし、残りの人生はそう長くない。息子も奥さんもいなくなったから、早く新しい連れ合いを探して、楽な生活をしたら……」と勧めました。陳さんは心を妨害され、身内の反対を押し切って、新しい人を見つけ、そして、いかなる手続きもしないまま同居生活を始めました。彼らは一緒に犬の散歩をし、美味しいものを食べ、常人の生活を楽しむようになりました。周りの同修は皆とても心配して、「このようにしてはいけない! とても危険だ! 早く修煉に戻りなさい」と何度も忠告しましたが、効き目はありませんでした。陳さんはずっと皆を避けて、「一人では孤独だ。周りに誰かがいなければ、死んだ時、誰もわからないじゃないか」と言ったそうです。その話をしてから間もなくして、陳さんはトイレで滑って転び、即死しました。

 本来、陳さんの事を書きたいと思いませんでした。大法に恥をかかせるのではないかと思ったからです。しかし、問題を隠すべきでなく、それを暴露して、他の同修にも戒めにしていただきたいと思いました!

 師父は多くの説法の中で、正念について何度も強調されました。そして、必ず正念を持って物事に対応し、正念を持って迫害を否定し、正念を持って邪悪を一掃するようにと説かれました。大法弟子として、肝心な時にどのような念を動じるかはとても重要です! 肝心な時、正念や神の念ではなく、人間の念、甚だしきに至っては邪念を動じれば、それはとても危険です! それは修煉がしっかりできていない事の現れです!

 正念の足りない同修に「もっともっと法を習い、もっと『精進要旨』、『精進要旨二』、そして『精進要旨三』を習うように」と勧めたいと思いました。自分の正念を強め、漏れを見つけたら、早くその漏れを修繕し、補い、自分の執着を直ちに排除しなければなりません! 自らの漏れと執着を取り除けば、迫害は自然に消えてなくなるのです!

 個人的な体得です。適切でないところがあれば、同修達の慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/10/29/356032.html)
 
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