文/中国の若い大法弟子
【明慧日本2017年12月10日】今日、「明慧週刊」の中の嫉妬心に関する文章を読んだあと、私は考えました。
長い間、私は嫉妬心について疑惑を持っていました。少しは分かっているようで、なかなかうまく、はっきりと分かっているとは言えませんでした。師父は「嫉妬心は中国ではきわめて強烈に現れており、すでに日常茶飯事になっていて、自分でもそれと感じられないほど強烈なものとなっています」[1]と説かれています。そして師父は「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、われわれが修煉して圓満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります」[1]と説かれています。そして師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」[2]とも説かれているのです。
学法を通して、私は深く考えてみました。嫉妬心の現れは普遍的に存在していることが分かっていますが、嫉妬心とは一体、何者なのでしょうか? 人を見下すことも、人を妬むことも嫉妬心ではありますが、どうして悪者になる根本的な原因が嫉妬心なのでしょうか? どうして嫉妬心がある限り、すべての執着心よりも強く現れるのでしょうか? 執着心は普遍的に存在しているのに、どうしてあまり内に向けて探すことができないのでしょうか?
私は繰り返して考えてみました。ある意念が私の脳裏に浮かびました。実は嫉妬心は、闘争心のもとで相手のことを考えていない一種の現れです。ここまで考えてくると、嫉妬心に関する疑いが消えました。なるほど、もし私たちが人の立場に立って物事を考えたとき、人に良いことがあったとしても、私たちは妬まないはずです。人が不幸になったとしても、心の中で喜ぶこともしないはずです。確かに人のことを考えずに、私利私欲のために闘う人は悪者だと理解できました。
最近、私はどうして自分には慈悲心がないのかと悩みました。真相を伝えるとき、自ら衆生を救い済度する気はなく、まるで任務を成し遂げるためだけのようです。今になってやっと分かったような気がします。慈悲心が無いということは、嫉妬心や闘争心に関わりがあり、つまり他人のことを考えていないということです。たまに、私が伝えた真相を聞いてもらえないとき、私は心の中で「聞いてくれないなら死んでしまえ!」と考えたことがあります。なんと極端な思想なのでしょうか。その後、よく考えてみて、自分でも驚きました。このような思想はどこから来たのか分かりませんでした。
嫉妬心を取り除かなければ、自分も他人も害することになります。
個人的な悟りですので、適当でないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2017/11/3/166268.html)