明慧法会 | 私の修煉の道
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年12月10日】

 法を得る

 私の高校時代の親友であるAさんは、結婚した後、体の調子はガタ落ちになり、ひどい時には、玄関から窓まで歩く力さえありませんでした。

 ある同僚が法輪功を紹介してくれたので、それ以来、Aさんの身体は飛躍的に改善しました。ある日、Aさんは一冊の『轉法輪』を持って来て、「この本の内包はとても深くて、次元の高い人でも学んでいます。家で読んでみて下さい」と勧めてくれました。このようにして私は法を得ました。それは1996年あるいは1997年の夏のことでした。

 その時、私は法の貴重さをまだ知らず、それほど精進しておらず、ただ『轉法輪』は良い人になるように教わる本だと感じていました。Aさんはいつも私を呼んで彼女と一緒に学法したり、座禅を練習したりしていました。最初、私は単盤さえできず、足もすごく痛いので、自分は向いていないと思いました。Aさんに「焦らないで、いずれ組めるようになりますから」と励まされ、私を連れて各チームの集団学法に参加し、煉功に行って煉功しました。私はまるで楽しい小鳥のように、勤務、睡眠と食事の時間を除いて、大多数の時間を彼女と一緒にあちこちに回っていました。

 ある日、私は法輪大法の素晴らしさを母に話しました。翌日、母は早起きして、不思議に家の近くにある煉功場を見つけました。今思えば、師父の法身が母を導いて下さいました。それ以来、私と母はずっとこの煉功場で煉功するようになりました。それに伴い、家の近くの学法チームと連絡が取れて、私達は風雨にもかかわらず学法に参加し、週末になると、師父の説法録音を聴き、説法ビデオを見、一度も中断したことがありません。1999年7.20江沢民らが法輪功を迫害してからは、やむを得ず中断しました。

 1回目迫害され、正念で巣窟を抜け出す

 2001年の後半あたりに、資料を配っていた同修が連行され、私も巻き添えにされました。初めて自由の身を失い、あの監室や鉄の門、鉄の窓を見て心の中で思わず震え、どうしたらよいか分からず、悶々(もんもん・胸の内で大いに悩み苦しむこと)としていました。その時、私の恐れる心はとても強くて、時々重い鉄の門の開閉の音や尋問される際に足かせを引きずる音が響き渡った瞬間、私の心臓は飛び出しそうになりました。当時、私と同じ監室に拘禁されていた同修は、囚人服を着ないため、何度も滅多打ちにされ拷問にかけられましたが、依然とし妥協しませんでした。それを見て、私の内心では非常に震撼をしました。間もなく、同修はある労働教養所に送られ、私の正念は少し強くなり、恐れる心も少なくなり、私も囚人服を着ないことを決心しました。

 暫くすると、私は他の監室に入れられました。この監室では4人の同修がおり、私は来る前に、監室内では学法と煉功ができず、同修は戸外開放の時間に煉功したために滅多打ちにされたそうです。私は入った時、監室リーダーに職業を聞かれたので、「外資企業の英語の通訳です」と答えました。監室リーダーは大変喜んでいて、この留置場で2年余り拘禁され、非常に孤独感を覚え、私に英語を教えるようにと頼まれ、私のことを「先生」と呼ぶようになりました。私は真面目に教え、彼女も真剣に学び、発音しにくいところを私は面倒くさがらずに、何回も教えました。だんだんと、監室のリーダーは私達に対しての態度が変わり、以前の凶暴な表情がなくなり、同修に対しても優しくなりました。戸外開放の時間になると、私たちは動功をする時、彼女は動作を学びながら私達の身の安全を守ってくれました。それから、私達も彼女に師父の『洪吟』を教え、よく一緒に暗唱していました。監室の中からよく私達の爽やかな笑い声が伝わっていました。

 毎週月曜日に、留置場は監室を検査します。彼女は師父の経文やペン、紙を隠して、検査の後に返してくれます。その後、彼女は他の監室の同修からの経文を渡してくれます。私は至宝を手に入れたようにすべての時間を利用して暗記していました。「論語」、「真修」、「悟」、「堅定」、「師を拝む」などの『精進要旨』の中の数十篇の経文を暗記しました。引き続いて、「秋風涼」、『法がこの世を正す予告』、『洪吟』、『大法は堅固にして破壊不可能である』、『法を正す時期の大法弟子』、『功能とは何か』などの新経文も入手し、すべて暗記しました。

 留置場の中で、紙を手に入れることが非常に困難であり、小さな1枚の紙もとても貴重なものです。この「道」という経文は、ある同修が極めて困難な状況下で歯磨き粉の箱の内側に書いて渡してくれました。同修の不揃いな筆跡を見て、思わず涙が出ました。この得難い経文を必ず暗記できるようにと決心しました。私は毎日できる限り多く法を暗記し、発正念を続けていました。そのうちに、私の正念が強くなり、恐れる心も少なくなり、外にいる時に自分は時間を切り詰めて法を暗記していなかったことを後悔しました。尋問される時間以外、私は時間を無駄せずに法の暗記と発正念をし、時々同修を呼んで皆で一緒に暗記しました。

 ある日、尋問を受けて帰ってきた同修が、私たちを呼んで断食のことを話し合いました。1人の同修だけが参加せず、私たちは皆賛成しました。しかし、私は法理上ではなぜ断食するのかをはっきり認識できませんでした。私達は集団断食した後に、すぐバラバラにされ修煉者のいない監室に入れられました。監室が変わった後、私と他の同修はそれぞれ食事をしました。断食を呼びかけた同修だけが断食を続けていました。

 警官はこの同修に対して野蛮な灌食を行いました。同修は毎回外へ引きずられた時に私の監室の前を通ります。私は窓の隙間を通して同修を見る度に、刃物で胸が刺されるように辛く、とても怖く感じ、自分がどうすべきか分かりませんでした。その後、私は再び同修と同じ監室に戻り、毎日大量に師父の経文、『洪吟』などを暗記し、お互いに切磋琢磨し交流しました。ついにある日、私は「明日から断食します」と同修に言いました。断食してから6日目、私は立つことが出来なくなりました。警官らはそれを知ると、飲食を強制しましたが、私は協力しなかったため、ゴムの管で高濃度の塩水と流動食のトウモロコシを無理やりに注ぎました。私の食道は突き破られ、顔や体、そこら中の地面が血だらけになりました。

 私の体はどんどん衰弱し、板の上に横たわって非常に苦痛を感じ、昏睡状態に陥り、意識が戻る度にすぐ法を暗記し、発正念をしました。9日目、私は限界状態になり、目を開き、話をする力さえありません。私は監管病院に運ばれる前、監室のリーダーは学んだ詩と英語を暗唱しながら、最後に私にシャンプーをしてくれました。同じ監室の皆は私の体を拭いて、大泣きして黙々と私を見送りしました。

 監管病院に着いた後、医者は「僅かな息が残っている、いつでも死亡する可能性があり、早く保証人を立て出所させましょう」と言いました。二十数キロの私を見て、女性の警官は涙を流しました。彼女は当番の日になると、よく私の様子を見に来て、掛け布団を整えたりして、私が死なないように見守ってくれていました。私は担架で担がれ、男性の監室を経由した時、ある男性の同修は全身の力いっぱいに大きな声で「法輪大法は素晴らしい! 法輪大法は素晴らしい! 法輪大法は素晴らしい!」と叫びました。この声は監管病院の廊下で長く響き渡りました。

 あの瞬間、私の頬から涙が流れて、途中でずっと止まりませんでした。私はすでに目を開けることができず、声も出せなくなっていました。しかし、大法弟子の心は通じ合っています。あの男性同修の叫び声は私の記憶の中に永遠に残っています。

 監管病院に運ばれて4日目、病院の書記と院長は私を見に来ました。彼らは私の名前を呼んで、温和な話しぶりで「○○さん、あなたは本当にすごいです、大法弟子は素晴らしい、法輪功は素晴らしい! 私達は急いで手続きをして、あなたを家に帰らせますから、大事にし頑張って下さい!」。このようにして、断食してから12日目、私は解放され帰宅しました。

 資料拠点での苦難に満ちた日々

 帰宅して間もないある日、区政法委と610弁公室の人員が家に来て、私の体がほぼ回復しているのを見て、法輪功を放棄するように脅迫しました。私は断りました。数日後、父と一緒に親戚の用事を手伝って帰って来た時、1台のパトカーが家の庭に止まり、数人の警官が家の玄関前に来ていたことに気づきました。すぐに身を隠し、父が様子を見に行くと、確かに私を連行しに数人の警官が来ていました。父はポケットの数十元のお金を私に渡してくれました。私は「お母さんと共に体を大事にして、心配しないで下さい」と一言話した後、同修の所に行きました。

 路上で迷った後、同修の協力の下で、私は転々として省内のある小さな町にやって来ました。そこで、私は現地の同修と一緒に資料拠点を立ち上げました。

 資料拠点の運営は非常に困難でした。その時、私は午前中にこの資料拠点で仕事をし、午後には他の場所に移動せざるを得なくなりました。引っ越しをすることにも慣れていました。同修は今日家賃を持ってきたばかりなのに、翌日に連行されたこともあり、資料拠点の資金状態は極めて欠乏しており、困難が次々と重なりました。

 安全の面を考慮して、同修は私1人に資料拠点の仕事を担当させるように決定しました。何度も紆余曲折を経て、資料拠点は何とか安定するようになりました。

 ある日の朝、起きてズボンを履こうとしたら、ズボンの至る所に虫がいっぱいいました。体に2列の足がぎっしり付いているような虫でした。ふだん家では、私は甘い生活環境の中に育てられ、ハエ、蚊さえ殺す勇気がなく、特に虫を怖がっていました。その時、私はガランとした部屋を眺めて、すべての恐怖心、悔しい思い、不安、孤独、苦しみが一辺に出てきて、どうすることも出来ず、言い表せない重苦しさが洪水のように急に押し寄せ、釈放されてから初めて大泣きしました。

 泣いた後、私は、このすべてが一体何ためであるかについて考えました。その時に師父の経文が頭の中に浮かびました。「大法弟子は偉大です。なぜなら、皆さんの修めているものが宇宙の根本の大法だからであり、皆さんが正念をもって大法を実証しているからであって、皆さんが巨大な難の中で打ちのめされることがなかったからです」[1]。師父の写真を見て、「いいえ、私は決して打ちのめされません! 私は決して退却しません! いかなる困難があろうとも、私の修煉の道を妨げることはできません!」と自分に言い聞かせました。

 私は涙を拭いて、ズボンを持って一生懸命はたいて、すべての虫を片付けました。それから煉功、学法をして、資料を作りました。

 毎日、同修は必ず1回資料拠点に来ます。一つは、私に何か必要な物があるかなどの状況確認をすることです。もう一つは、資料を持って帰って、現地の配布する同修に提供します。ついでに、どこの資料拠点にまた連行事件が発生したなどの情報をも教えてくれました。そして、「資料が非常に不足しており、もっと多く作ることができますか」と同修が話したので、私は自分の生活水準を最低限にまで抑え、毎日に全力を尽くして資料を作り、休憩時間を極めて少なめにしました。時には、急ぎの資料を作成するのに徹夜したあと、次の日も、また引き続き徹夜して資料を作っていました。

 2002年の春、迫害の厳しい時期でもあり、至る所が恐怖で満ちていました。特に長春の大法弟子がテレビ番組に迫害の真相を挿入して放送した後、師父の経文が発表され、全国の多くの大法弟子がテレビ番組に迫害の真相を挿入して放送しました。これに対して、江沢民が大法弟子に対して発砲令を下達しました。ある日、同修は数枚の写真を持って来て私に見せました。省内某市のテレビ番組に迫害の真相を挿入した大法弟子は、腿に拳銃二発が命中しても、幸運に脱走しました。私は大法の不思議さに驚いたあまり、血まみれの写真に震撼させられました。大法弟子の生死も怖がらず、無私無我に法を実証する壮挙に感動した自分は、涙を流しながら資料を作っていました。私は大法弟子になれたことに対し、法を実証する仕事に参加ができたことに対し、とても光栄に思い、誇りを感じました。

 「5.13」世界法輪大法デーを記念するため、同修と一緒に美しい横断幕や精巧なシールの貼り物を含めて、大量の真相資料を作りました。地元の同修はそれを掲げたり、配布したりして、現地では大きな波紋を呼びました。

 その後、資料拠点の協調人が尾行されたため、私と同修は再度連行され、異郷の留置場に送られました。

 留置場で、私と同修は受刑者に滅多打ちにされ、私達2人は共に断食して抗議しました。その後、2人とも危篤状態に陥り、病院に運ばれました。私は再度解放されました。残念なのは、同修は助からず、迫害により死亡しました。亡くなる前、彼女の最後の言葉は「○○地から来た同修(私のこと)はどうなっていますか?」でした。

 師を信じ、法を信じて、刑務所に入所しても道に迷わず

 2003年、迫害の真相を伝えたため、私は再度不当に連行され、懲役3年の不当な判決を下され、省女子刑務所に拘禁されました。そこで、私達はいつでも残酷な迫害に直面していましたが、大法弟子にとって、師がおいでになり、法があり、恐れる心は何もありませんでした。

 刑務所の規則を暗記しないため、様々な体罰を加えられ侮辱され、家族との面会も許されませんでした。あのような邪悪な環境の中では、大法弟子の正念がきわめて重要です。ある日、警官は受刑者に指図して、私に対して極めて残酷な拷問を加えました。彼らは私を縄で縛り付け、冷たいコンクリートの地面に座らせました。少しでも動いてはいけません。不思議な事に私はあまり苦痛を感じておらず、ずっと発正念をして、法を暗記していました。同時に一念を加えました。「師父にお願いします、すべての苦痛を加害者の身に移して下さい」。最後に、受刑者たちは縄を解いた時、私の腕などに残った深い跡が、間もなく消えてなくなりましたが、しかし、受刑者たちは1週間もの間、身体の痛みに耐えていました。

 ある日、全国公安部門の人員が刑務所に検査しに来ました。抜き取り検査をし、ちょうど私に当たりました。私は事務室に呼び出され、彼らは「法輪功修煉者の『転向』についてどう見ているのか」と私に聞かれ、やっとチャンスが来ました! 「法輪大法は人を善に導く高徳な大法です。私達の師父は良い人になるように、もっと良い人になるようにと教えられました。それなら私達はどこへ転向するのですか? 大法弟子は転向すべきではありません! 法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしいです!」と述べた後、数分の間、監室に戻りました。刑務所の責任者は大変な怒りようで、彼らに恥をかかせた上、当刑務所の「転向」作業が大失敗であると証明されたため、私に対して再度迫害を行いました。彼らは私をある監室に閉じ込め、4人の受刑者に交替して、滅多打ちにするように命じました。私は「すべての痛みなどは、加害者の身に移るように」と発正念をしましたので、誰もが恐れて殴る勇気がなくなりました。11月の北方はすでに寒い季節に入り、監視役はみんな綿の帽子、冬着と冬靴で武装して、私を半袖にさせ、裸足で一晩中、廊下に立たせていました。私はひたすらに法を暗記し、寒くなく、夜中になると、疲れて立ったまま寝ていました。目が覚めると、数分ごとに春風のような暖かい空気が身体に吹いて来て、あの暖かさ、ありがたさに涙を流しました。

 師父の法身が弟子を加護して下さっています! 師父が常に弟子の傍におられます!

 ある日、私は監室リーダーを呼び出し、「お姉さん、あなたは刑務所に入って数年来、多くの法輪功修煉者に接触したことがあると思いますが、中に悪い人はいなかったでしょう? 法輪大法は人に心を修め良い人になるようにと教えられ、誰に対しても善意を持って接しなければならず、これは佛法です! あなたは大法弟子に優しくすれば善の報いが得られます」と1時間ほど真相を話して、彼女に大法の素晴らしさを伝えました。労働作業が終わった時、リーダーは受刑者たちに言いました。「今日から、○○さんを正常に寝させましょう!」

 師父は次のように説かれています。「大法弟子として、皆さんの今日の現れは偉大なもので、皆さんの一切の善の現れは邪悪が最も恐れているものです」[2]。私の認識として、大法弟子が迫害者にはっきりと真相を伝える中で、他の空間の邪悪な要素を解体する過程でもあります。邪悪は消滅し尽くしたら、迫害は全てなくなります。

 迫害を軽減するため、刑務所の警官らを救うため、出所する前に、私は誠意を持って法輪功迫害の責任者である某女性大隊長を訪ね、1時間余り真相を話しました。最後に、彼女は笑顔で事務室から私を見送り、「出所したら教訓をくみ取って、行うことをしっかりと行いながら安全にも注意して、今後、再び入所しないように」と言いました。私はまたある教官を訪ね、彼女は比較的に邪悪でしたが、「善を持って大法弟子に接すれば、福報が得られます。大法弟子に対して電気棒や拷問を止めて下さい」と警告すると、彼女はテーブルを叩いて、「それは公務だから、他の人は干渉する権利がない」と怒鳴りつけました。私も譲ることなく、「あなたに自分のため、家族のため、子供の未来のために考えて欲しいだけです」と伝えると、彼女は何も言わなくなり、私の両親の年を聞きました。私は答えると、「あなたの両親は毎月のように面会に来て、大変でした。家に帰ったら親孝行をして、今後再び入所しないで」と言いました。

 法を得た父親が無病で、軽快な体となる

 2012年の旧正月のある晩、私は階段から転落し、左の足が全く動かなくなりました。私の第一念は「私は師父の弟子です、大丈夫です」と一念を発し、右の足だけを使って、家に戻りました。

 父は「病院に行こう!」と言いましたが、私は「大丈夫です、師父の弟子です」と答えました。「自分は大法弟子であり、父に面倒をかけるわけにはいかず、早く回復しなければならない」と考えました。

 翌日、父に「李先生の法輪大法を学んで、立っている功法がありますね、やってみたら?」と言われ、本当にそうだ、煉功しないといけないと思って、四式の動作をクリアしました。父は嬉しそうに「座っている功法もあったね」と言いました。私はちょっと考えて、座禅することに決めました。左の足は蒸しパンのように腫れあがって、黒い紫色になり、当たると激痛が走ります。私はその痛みを我慢して足を組みました。「煉功音楽が終わるまで絶対に足を崩しません」と決心しました。しかし、左の足は足の指から太腿まで、猛烈な痛みでまったく入静できず、涙と鼻水も止まらず、セーターはびしょ濡れになりました。

 父は見ていられず、「すごく痛いなら、やめた方がいいんだよ」と勧めました。私は「師父が私のために巨大な難に耐えて下さり、自分が耐えているこのぐらいの業力は、大したものではありません」と父に話しました。このようにして、私は1時間の静功をもクリアしました。

 それから、私はすべての時間を無駄せずに学法、煉功をしました。

 3日目、私の足は奇跡的に歩けるようになりました。4日目、私は学校の授業に出ました。この期間、私はずっと右の足に頼って、食事を作ったり、父の世話をしたりしていました。父は法輪大法の不思議さを目にして、「もし病院に行っていたら、1カ月はゆうに治らなかっただろう」と感慨深げに言いました。

 ある日、父は言いました。「あなたの足が不思議にも回復したのを見て、私も学びたいのだが」。強靭な父は、毎日の夜明け方2、3時から6時の正念時間まで『轉法輪』を読み、一度も中断したことがありません。慈悲なる師父は、父に現わして下さいました。父は本を読む時、本の中の文字がゆっくりと立体に変わり、金色になり、そして、本全体が金色に光っている。また、家の中に無数の卍があるのが見えると言いました。83歳の父は、全身が軽くなり、耳は遠くなくよく聞こえ、目ははっきりと見え、考えも素早いです。師父の慈悲深く、救い済度に感謝いたします!

 生徒と保護者たちにも真相を伝え、「三退」を勧める

 刑務所から家に帰ると、救援する同修のために私を海外へ行かせる予定を断り、高齢の両親の世話をすることにしました。

 生計のため、私は英語の補習クラスを開きました。私はすべての機会を利用して、生徒と保護者たちにも真相を伝え、「三退」を勧めました。

 ある腕白な生徒が、学校で授業を真剣に受けず、宿題を全くしないので、親と先生は皆、手に負えなくなりました。彼の母親は多くの補習クラスを探しましたが、すべて先生とケンカになって、やめてしまいました。この生徒は私のところで勉強することになりました。彼の父親が知ると、どのような先生が自分の息子を引きとめたのか、わざわざ見に来ました。私は英語を教えながら、彼に人間としての道理をも教えました。後で分かったことですが、この生徒は本当の問題児で、よく喧嘩するだけでなく、暴力団との繋がりもあり、私は彼を助ける責任があると感じました。

 私は彼に法輪功を説明し、常に「法輪大法は素晴らしい」を念じれば、難から逃れられると教えました。また、彼の考えについてお互いによく交流し、毎回の喧嘩を制止しました。この生徒は「先生、私はもっと早くに先生に出会えていたら、他の人とこんなにも喧嘩しなかったのに」と言いました。子供の両親は私に対して大変感謝しています。

 ある生徒は、家庭の経済状況は裕福で、甘やかされていたために、携帯電話で遊んでばかりいました。

 私は授業料を安く設定していますが、授業をいいかげんにせずにきちんと行います。この生徒は中学校から高校の卒業まで、ずっと私のところに通っていましたので、いかなる問題にあっても、私はすべて大法が私に賦与した知恵で指導していました。大学入試の合格者が発表された後、この生徒の全家族はすぐ私のところに来て、生徒の母親は「子供の幼稚園の頃から今までの中で、私の出会った先生の中で最も良い先生です! 今日、私達の全家族でご挨拶に来ました。有難うございました!」と感激した表情で言いました。私は「『法輪大法は素晴らしい』を忘れないで下さい、感謝するなら、私の師父に感謝すべきです!」と答えました。

 このような生徒もいました。授業を受ける時、必ず母方の祖母に付き添ってもらわないといけなくて、しかも再々、我がままをします。祖母は教育方法を取らず、子供を殴るしかできず、子供はますます抵抗するようになり、祖母はたいへん悩んでいました。私は時機を逃さず、大法を紹介し、神韻のDVDをあげました。祖母は見た後、興奮しながら「すごいです、とても良かったです」とお礼を言いました。そして、この生徒と祖母は法を得ました。私はミニスピーカーを買って、TFカードを設置し、師父の広州での説法と五式の煉功音楽をダウンロードしました。生徒の祖母は非常に感激して、「先生、本当に有難うございます、教えがすべて分かりました!」と話しました。そして、祖母はすべての親族を「三退」させたそうです。夏休みと冬休みの個別授業の時、私は3枚の座布団を用意して、まず生徒、祖母と3人で1時間『轉法輪』を読み、少し休憩してから、1時間半の英語の授業をします。この生徒は所属する学校で、成績が45点から100点にまで上がりました。

 とても可愛い女の子がいます。この女の子は上品で大人しく見えますが、男の子と喧嘩する勇気があり、負けたことがありません。幼稚園から中学校まで喧嘩するのが絶えることがなく、学校でも有名になったそうです。女の子の母親は「先生、私は生きることさえ大変辛く感じています。なぜこのような子供を生んだのだろうか」と相談されたことがありました。

 私はこの親子に「三退」を勧めて、神韻のDVDをプレゼントし、大法を紹介しました。ちょうど私の左の足が3日で回復した頃、親子は私の話を聞き、納得し、賛同してくれました。

 ある日の夜、女の子から電話がかかってきました。「先生、私は先生のことをすごいと思っています。幸運にも先生に出会って良かったです、先生は伝説の人です」。女の子の成績は78点から模擬試験の126点(満点は150)にまで上がりました。

 女の子と母親は法を得ました。私は『轉法輪』とミニスピーカーを贈り、五式の煉功動作を教えました。

 法を暗記する中で昇華する

 常人の時、私は詩が大好きで、中国5千年の伝統文化の中に多くの名作があり、常に暗記していました。

 法を得た後、師父の詩は世の中の最も素晴らしい詩だと感じて、バスに乗る時間を利用して『洪吟』、『洪吟二』、『洪吟三』を暗記しました。それを知った同修は「『洪吟』を暗記できるのなら、なぜ、『轉法輪』を暗記しないのでしょうか」と聞かれたことがあります。次に同修と会った時、同修はまた懇(ねんご・親切で丁寧なさま)ろに言いました。「ちょっと工夫して『轉法輪』を暗記したらどうですか、努力すれば、あなたにはできます」

 1回目『轉法輪』を暗記した時、邪魔がとても多くて、暗記したり休んだり、休んだり暗記したりして、通読したこともあり、1年ぐらいかかりました。それにしても、法を暗記することによって感じた妙なる素晴らしさが言葉で言い表せないほどであり、無限な内包がある法に対して、より深く会得することがありました。時々、暗記したばかりの法を頭の中に浮かべては、事に出会うと、修煉者のように自分を制約することができました。

 私は引き続き暗記するようにと決めました。私は細かく計画を立てて、毎日いくら難しくても怠らずにやりました。そうすると、暗記すればするほど理解ができ、暗記すればするほど心が静かになりました。時に暗記している中で、世の中にあらゆる物が存在しなくなり、眼前の1冊の『轉法輪』しかないような感じさえします。非常に不思議なことです! いかなる邪魔も入ることができず、生命が法の中に溶け込む感覚を体験しました。

 今、法を暗記するスピードは速くなりました。『明慧週刊』で同修が『精進要旨』を暗記する記事を読んで、私は3冊の『精進要旨』をできるだけ早く暗記できるようにと決めました。

 法を得てから今日に至るまで、でこぼことした普通ではない20年間を歩んできました。実はもっと多くの不思議なストーリーをまだ書いていません。前に進んだ一歩一歩は、すべて難な経歴を伴いますが、常に師父が加護して下さいます。慈悲で偉大なる師父が、意気地のない弟子のために、宇宙の衆生のためにすべてを耐えておられることを思う度、私は涙が止まらなくなります。弟子として、私のできることは、師父が巨大な苦痛に耐えておられることによって、もたらされた延長されたこの貴重な時間を大切にし、自分の全力を尽くして三つのことをしっかりと行い、師父の慈悲なる救い済度に背かないようにいたします!!

 謹んで 第十四回大陸法会が開催される場をお借りして、師父の慈悲なる救い済度に感謝いたします!

 

 注:

 [1] 李洪志先生の著作: 『精進要旨二』〈弟子の偉大さ〉
 [2] 李洪志先生の著作: 『精進要旨二』〈理性〉

 

(明慧ネット第14回中国国内の大法弟子の修煉心得交流会より)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/11/18/356208.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2017/11/19/166453.html)
 
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