16歳の女の子のあまりにも辛い生い立ち
■ 印刷版
 

 【明慧日本2018年1月4日】私は徐鑫洋と言い、今年16歳で、中国から海外にやって来ました。私は他の子供と違って小さい頃、よく親戚や母の友人の家に預けられ、こちらの家に数日間泊まっては、あちらの家に数日間泊まっていました。母は預けたあちこちの家々に私を見に来ては、またすぐに去って行きました。

图4:来自辽宁的十六岁女孩徐鑫洋手捧父亲徐大为的遗像。徐大为因为坚持修炼法轮功被中共冤判八年监禁,出狱后十三天离世。
父・徐大為さんの生前写真を捧げる16歳の徐鑫洋さん

 私は母思いの娘です。毎回母が離れると、私は隅に隠れて泣いていました。母といつも一緒にいたくても、母が離れて行ってしまうことは、私にとって怖い事です。しかし、母に会う度、母はいつも友人に父の話をします。私は父を見たことがなく、父が誰なのか、どんな様子なのか、なぜ刑務所に閉じ込められているのか知りません。最も多く耳にした言葉は、邪悪を暴露する、危険だ、パトカー、安全のため注意するなどの言葉でした。

 私は少し大きくなると、母は多少、父の事を教えてくれるようになりました。私の父は徐大為と言い、とてもおとなしい人だそうです。1996年、父は『轉法輪』という本を読んでから、「真・善・忍」の理念に従って法輪功を学び始めました。1997年、法輪功を学ぶ同士の母に出会い、2000年5月12日に2人は結婚しました。

 1999年7.20、江沢民が中国全土で法輪功を根絶する命令を出したため、大勢の法輪功学習者が連行されました。法輪功は中国で中傷され、罪を転嫁され、泥を塗られました。父と母は、虚言に騙された人々に真相を分からせるため、法輪功の資料を印刷しました。

 父は8年の実刑判決を宣告され、母は迫害され虫の息となる

 父と母は法輪功の資料を印刷したという理由で、2001年2月に遼寧省瀋陽市の警官に不当に連行された。父は懲役8年の実刑判決を宣告され、刑務所に拘禁されました。

 母は連行された後、拷問室に閉じ込められ、警官に革靴で頭と顔を殴られ、頭がクラクラして耳鳴りがし、絶え間なく吐き続けました。当時、母は妊娠したばかりでした。1カ月後、保証人を立てて審問を待つという条件付きで、母は解放されました。

 その時、刑務所の中の父は、手の指と足の指を針で刺され、「大掛」にかけられ、電気棒で電気ショックを与えられ、声が出ないように雑巾を口の中に詰められました。父は苦しめられ、息ができなくなり、胸腔に水が溜まりました。あまりにも残酷な様子を見ていた受刑者が見ておられず、電話で母に教えました。

 母は私が生まれた4カ月後、麻薬戒毒所に連行され、9日間後に虫の息となったため、自宅に戻されました。

 父と一緒に居た僅かばかりの13日間

 私の記憶の中で、7歳の時、刑務所で初めて父と対面しました。父が私を抱っこしようとした時、目の前の人は母にとって大切な存在で、最も会いたい身内であることを何となく知ってはいたものの、私は初めてで顔見知りでなく、とても怖くて母の胸に隠れて抱っこを拒否しました。これは私の一生の残念な思いになりました。

 2回目に父と会った時は、私は8歳でした。父は8年間拘禁された後、刑務所から家に戻されました。全身傷だらけで、呼吸困難となり、生気も眼光がなく、時には意識がはっきりして、時には意識が朦朧としていました。私は父に近づく勇気がなく、母もどうしたらよいか分かりませんでした。

 父は刑務所から帰って13日目、私と母を残して永遠にこの世を去っていきました。その時、私はまだ物心がついていませんでした。母は100日の間に、4人の最も親しい身内を次々に失いました。それは最も大切な人達、母の両親、兄、夫でした。この4人の身内は残酷な迫害の圧力と打撃に耐え切れず、相次いでこの世を去っていきました。その時の母の精神状態を言葉で言い表すことができず、私はただ隅に隠れて心細くこのすべてを見ていました。

 しかたなく4回も転校する

 父が亡くなった後、母は各部門に迫害の真相を伝え、父の冤罪を晴らすため、連行される危険に直面していました。私は安定した生活場所を失いました。

 小学校3年の時に、私はすでに4回も転校をしました。最後に、学校の寮に住むことになりました。母は父の事で至る所を駆けずり回り、めったに会えず、会っても一目見るくらいでした。私がはっきりと覚えているのは、母が私を学校へ送った時、私は時間がゆっくりと進み、もっともっと母と一緒にいたいと願いました。しかし、私は我慢して心ならずも「お母さん、行っていいよ」と言いました。母がやっていることは、すべて正義のためであると私は知っていたからです。

 母と別れる時、私は振り返る勇気がなく、母に強い印象を残したかったからです。しかし、振り返る瞬間、どうしても笑顔ができず、我慢しきれずに、いつも、いつも涙が溢れ出てきました。

 4つ目の学校は沈陽雄獅学校で、大部分の先生方が法輪功学習者でした。毎週土曜日と日曜日に、母に会えるようになりました。父の事で、母は瀋陽に居る時間が多くなり、私はそれをうれしく思いました。

 幸い孤児にならなかった

 ある日、同級生の話が耳に入りました。「明慧ネットで報道した。徐大為さんが迫害され亡くなった、その妻も連行された」

 私は驚いて、どうすべきかが分からなくなり、ベランダに走って行き、大泣きしました。同級生に「どうしたの」と聞かれ、「私はどうすればいいの? お母さんは連行され、お父さんは迫害で死んでしまった。私は孤児になるの? 誰もいなくなるの?」と友達に聞きました。そして、先生の所に行き、情報を確かめました。先生は「お母さんはきっと大丈夫よ」と慰めてくれました。

 母は本当に連行されていました。二十数日後、危篤状態の母はやっと解放されました。幸いにも私は孤児にならずにすみました。

 先生は帰って来なかった

 風が穏やかで日の光がうららなある日、私の誕生日の前日のことでした。私は「先生、明日は私の誕生日です」と嬉しそうに先生に話しかけました。先生は私に誕生日プレゼントを用意すると言ってくれました。

 翌日、私はずっと待ち続けていました。待っていたその先生が連行されたと聞かされました。代わりの先生がいつも通りに授業をしましたが、待ちわびているその先生は、あれからずっと帰って来ませんでした。

 三日目の朝、「昼ごろに警官が学校に来る」と聞いたので、私は一部の同級生と一緒に学校から逃げ出しました。昼近くに、私達は電話をかけて実情を尋ねたところ、「警官が学校の食堂で法輪功を中傷するものを置くかもしれない、危ないから学校に入来ないように」と校内にいる同級生は言いました。私達は荷物を学校に置いたまま逃げました。

 その日から悪夢と逃亡が続く

 その日から、私はよく悪夢の中で目が覚め、夜寝る時に、しっかりと誰かの手を握らないと寝つくことが出来なくなりました。

 後で聞いたことですが、多くの同級生は警官に連行されました。ある巴冠に在住の男性の同級生は、4日間連続して眠ることを許されず、「先生はどんな人と接触していたか」などを自白するようにと警官に強く迫られ、ショックを受けて死亡しました。この事件は、明慧ネットでも報道されました。

 私の少年時代は、ほとんど恐怖と逃亡の中で過ごして来ました。私は12歳の時、母と一緒にタイに逃亡しましたが、依然として恐怖から抜け出せず、母はもう少しのところで、タイの警官に移住者刑務所に拘禁されるところでした。1年経たないうちに、タイの警官は23人の法輪功学習者を連行し、中国に送還しようとしました。今は、米国に来ており、やっと連行される心配はなくなりました。

 しかし、この残酷な迫害はまだ終わっておらず、私と同じ境遇の子供たちが中国には大勢います。私はもっと多くの人々に、今もなお、中国で起きているこの迫害に関心を持って注目するように、強く望んでいます!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/12/15/357911.html)
 
関連文章