文/河北省の大法弟子
【慧日本2018年2月17日】旧勢力に隙(弱み)に乗じられて命を亡くした同修たちの顔が、私の目の前に浮かびました。彼らの死について私が考えたこと、悟ったことをここに書き出して、病気の苦しみと戦っている修煉者のための参考になれば幸甚です。
私は1999年前に修煉を始めた古い弟子です。私と同じ日に修煉を始めた妻は、迫害を受けて5年間投獄され、健康が大いに損なわれました。帰って来た後、真相を伝える中でまた3回も警察に連行されたことがあって、最後に重病の状態が現れて家の中で突然死しました。葬儀が終わった後、同修・Aさんは私にこんなことを教えました。妻は生前Aさんに「私はたとえ死んでも病院に行きません」と話したことがあったそうですす。当然、ほかの要素もあると思いますが、その言葉が旧勢力に隙に乗じられて、妻の命が奪われた可能性も高いと私は思います。妻の死が地元で一大事件になり、一般人にも修煉者にも大きい影響して、妻の死を見て大法と修煉に対して動揺してしまった年配の修煉者もいました。
数日前、現地の同修・Bさんに会いました。Bさんはこのようなことを話しました。現地に不治の病に罹って亡くなった数人の同修ともに、死ぬ前に「死にたい」と言い、病気の苦痛に耐えられなくなって、死んで楽になりたかったそうです。彼らは病気に罹ってからも大抵1~3年間生き、その時間はもともと彼らを目を覚まし向上させるために師父が与えてくださった時間なのですが、もしもその時間のうちに旧勢力の手配をしっかり否定して、師父が按排された道をしっかり歩んだら、病気の難関を突破できたかもしれません。残念ながら彼らはしっかりと行なえず、「死にたい」という一言がどんなに重いかも知らずに、それは修煉者として絶対に言ってはいけない言葉で、それが旧勢力に命を奪われた最後の理由なのです。
先日、年配の女性同修・Cさんが亡くなる前後の情況を他の同修から聞きました。Cさんの孫は警察の選抜試験に合格してもうすぐ警察官になります。それを知ったCさんは、法輪功を修煉する自分が孫の出世を妨げるのではないかと配慮して、死にたいという考えが浮かびました。その後のある日、真相を伝えるときにCさんは軍の7、8人に捕まえられ、軍は地元の派出所に知らせて、派出所の人が来てCさんを連れ出して、そのままCさんを家に帰らせました。それからすぐCさんは病気に罹りました。同修たちはCさんと一緒に学法し発正念しましたが、最後にCさんは孫の出世のために死にたいと思ったことをやっと同修たちに教えました。暫くしてCさんは亡くなりました。
最近、私の従姉とご主人が修煉を止めたと聞きました。彼ら夫婦は1996年に修煉を始めて、そんなに精進しているわけではありませんが、しかしずっと続けていました。聞くところによると、従姉の息子の嫁はキリスト教の信者で、いつも彼ら夫婦にキリスト教を勧め、彼らは息子の嫁との関係を壊さないために法輪功の修煉を止めたそうです。彼らは80歳近い老人で、かつて私は何度も彼らによく修煉するようにと励ましたことがあります。彼らが修煉を止めたことに私はとても心が痛く、近いうちに彼らに会って交流しようと思っています。
ここ数年来、周りには病気で亡くなった同修が何人もいます。彼らの大多数は60歳以上の年配者ですが、40歳、50歳の人もいます。また、彼らはほとんど迫害前から修煉を始めた古い学習者で、彼らを思い出すと、私の気持ちはいつもとても重くなります。
さて、私自身についていえば、ここ数年、私にもよく病気の状態が現れて、ひどいときに私の頭にもマイナスの考え方が浮かびます。浮かんだら、それは真に自分の考え方でなくて、旧勢力がそれを私の頭へ押し込んで、私にも「もう生きたくありません」を言わせるための手段だとはっきり分かっています。その時、「私は李洪志先生の弟子です。先生が手配して下さった道だけを歩んで、旧勢力の手配を断固として認めず、全面的に否定します」と私は内心で考え、同時に多く学法して、多く発正念をすると、少しずつ体調が良くなります。
年配の修煉者がよく出遭う難は病気だけでなく、情に対する執着で、日常生活に時間をかけすぎる、「三つのこと」を怠る、安逸を求めるなどもとても際立っています。いつも「しっかり修煉を続けよう」と自分に言い聞かせて、精進する状態を保たなければなりません。
『西遊記』に「人間に生まれること、中国に生まれること、正法に出会えることはとても有難いことだ。その三つともに叶えた人間は如何に幸運な人だろうか」と述べています。我々はその三つともに叶えて、幸運にも法輪大法の弟子になって、大切にしない理由がどこにあるでしょうか。高い空間の多くの神でさえ、現在の地球上の人間に転生する機会がなくて、仕方なく動物や植物に転生するのに対して、私たちは軽々しく「死にたい」と思う権利はどこにもありませんよ! また、私たちは大法の素晴らしさを実証して衆生を救い済度するという偉大な使命を背負っており、誓約を果たす前に死んではいけないでしょう?
『轉法輪』に「心が正しくないとはどういうことでしょうか? それはいつも煉功者としての自覚が欠けていることです」、「体調がすぐれないと、すぐ病気にかかったと思い込む人もいます。どうしても煉功者としての自覚を持たず、ちょっとしたことでも病気だと思い込み」[1]と書かれています。私が思うには、修煉者が出遭ったすべての面倒は、心を正しく持っていないことが原因です。もしも私たちが正々堂々と修煉者らしく行なえば、旧勢力はそのような修煉者を迫害する理由はありません。
周囲の年配の学習者達は、大半、迫害前から修煉の道を歩んできた人で、多くの人は激しい嵐のような試煉を経験してきたのです。現在という修煉の最後の時期に、病気であれ、ほかの形の苦しみであれ、それに出遭うとき、くれぐれも師父、大法、そして修煉を信じる心を捨ててはいけません。どんなに小さい一念でも正しく持ち、どんなに小さい言動でも正しく行なって、旧勢力に迫害の口実を与えないようにしましょう。私たちがしっかり行なえば、師父は必ず私たちを守ってくださるのです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』