「現世で直ちに報いがある」についての見解
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年2月16日】大法弟子を迫害する警官たちがなぜ直ちに罰を受けないのか、その疑問はずっと私を困惑させています。地元の例を挙げますと、とても凶悪な数人の警官を対象に、直ちに悪の報いを受けるようにと多くの同修発正念をしましたが、結局、彼らは悪の報いを受けるどころか、昇進した人もいました。それはなぜでしょうか? 発正念の口訣は「法は天地を正し、現世で直ちに報いがある」[1]と言っていますが、その警官らはどうして悪の報いに遭っていないのでしょうか。

 先日、『精進要旨二』の「大法は堅固にして破壊不可能である」を読んでいるうちに、私は自分の疑問が解けました。文中、師父は「しかし、それらの最も悪い邪悪の徒は、最後の一歩まで利用されます。それというのも、ほかにも大法弟子が絶えず表に出てきて、邪悪な旧勢力はそれを利用して引き続き大法弟子を試す必要があるからです。これこそが、それらの最も邪悪な悪人がなぜ、まだのさばって悪事を働いているかということの原因なのです」[2]とおっしゃいました。

 私は下記のように悟りました。大法弟子に対する迫害は巧妙に段取りされたもので、シナリオ通りに、悪事を働く役はいつ出場するのか、彼はどんな事をするのか、どんな役割を果たすのか、彼はいつ死ぬのか、全てはシナリオ通りに運んで少しのずれもありません。もっと高い次元の神がそのシナリオを守っているのです。役の生死も含めて、神は全ての役を守っていて、勝手に何かが挟み込まれてシナリオを破壊することを許しません。それは天象なので、ミスが出ないように守られているのです。『封神演義』の中に申公豹という人物がいて、彼は何度も悪事を働きましたが、しかし、神たちに痛い目に合わされただけで、ずっと殺されたりしていません。姜子牙が現れたときから、申公豹は絶えず妨害を行ないました。彼は嫉妬心のために姜子牙と勝負したいと言って、自分の頭を切り取って空中に投げましたが、その光景を南極仙翁に見られて、南極仙翁は鶴に申公豹の生首をくわえて南海に投げさせました。申公豹は怖くなって何度も許しを求めて、やっと生首を返されました。道理から言えば、南極仙翁はあれほど大きい能力を持っており、申公豹を殺すことはいとも簡単なのですが、なぜ申公豹を脅すだけで殺さなかったのでしょうか? 申公豹の存在は天象だとわかっていて、決められたシナリオは誰も壊すことができないと南極仙翁は分かっていたからです。もし申公豹が登場してすぐに殺されたら、後の物語は展開できなくなるではありませんか?

 法を正すことは大がかりな芝居のように、旧勢力も幾重にも重なった綿密な手配をしていて、師父はそれを逆手に取っておられるのです。そのようなシナリオの中、一歩一歩、間違いが起こるはずがありますか? 『封神演義』の中の申公豹は多くの悪事を働いたのですが、彼に全ての悪事を働かせて、シナリオの最後まで行ってもらわなければいけません。天象はそのように手配しているからです。一方、大法弟子に迫害を加える警官たちも同じように、もしも私たちの発した正念の力によって彼らが悪の報いに遭って死んだら、その後の舞台はどのように展開するのですか? だから、全ての悪人もシナリオ通りに演じ終わってからでないと退場することができません。私たちが発した正念に力がないのでなく、目下の情勢を維持するために旧勢力は悪人らを守っているからです。発正念しても悪人が悪の報いに遭っていない本当の原因はここにあります。では、悪人はいつ悪の報いに遭うのですか? 師父は私たちにこう教えられました。「現在、大法に対して罪を犯したすべての悪人は、大法弟子へのいわゆる邪悪な試練の中で利用する価値がなくなった者が、すでに悪報に遭い始めており、これから大量に現れるのです。しかし、それらの最も悪い邪悪の徒は、最後の一歩まで利用されます。それというのも、ほかにも大法弟子が絶えず表に出てきて、邪悪な旧勢力はそれを利用して引き続き大法弟子を試す必要があるからです」[2]。つまり、悪人らの使い道が無くなったときになると、悪の報いに遭うようにと私たちが発正念をしなくても、旧勢力はきっと彼らを処分するのです。私の地元の「610弁公室」の責任者、公安局の副局長2人、および数人の悪徳な警官はまさしくそのような情況で、退職若しくは定年後に悪の報いはすぐに来て、彼らは皆きわめて悲惨な死を遂げたのです。

 それでは、これらの悪人は旧勢力に守られて、旧勢力のいかなる手配も認めません。発正念の効果がどうであれ、私たちはひたすら師父の言われた通りに行い、止めずに発正念をするのです。悪人らはどれほど旧勢力に守られるかに関わらず、私たちはひたすら自信を持って持続的に発正念をして、邪悪を一掃するのです! 私たちの正念によって他の空間の邪悪が大量に解体されたとき、この空間にいる悪人らもきっとのさばれなくなります。だから、旧勢力の手配を一掃するため、不正のものを正すために私たちは発正念をするので、不正を見て手をこまねいているのではありません。

 悪人に罰を与えることは、彼らに悪事をしないように戒めるためです。師父はまた「大法弟子としては、邪悪な旧勢力が按排した一切を全面的に否定します。全面的に真相をはっきりと伝え、正念をもって邪悪を取り除き、衆生を救い済度し、確固として法を護るべきであり、なぜなら、あなたは大法の一員で、堅固にして破壊できないからです。一切の正しくないものを正し、転向させられ、救い済度されるのは、邪悪によってだまされた衆生だけであり、取り除かれるのは邪悪な生命と邪悪な旧勢力なのです。それによって圓満成就するのは大法弟子であり、大法の威徳を築きあげるのです」[2]とおっしゃいました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「正念を発する時の二種類の手印』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「大法は堅固にして破壊不可能である』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/3/350522.html)
 
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