家の中で「修煉者としての忍」を修める体験
■ 印刷版
 

文/広東省の大法弟子

 【明慧日本2018年3月4日】法輪功を修煉して11年近くになる私ですが、「忍」に対する理解が非常に浅く、ずっと表面あるいは常人の次元の「忍」に留まり、最近になってやっとより深い体得を得ることができました。

 師父は「寺院に行かず山にも入らぬ 通学、耕作、通勤す 人心を直に指し法に照らして修め 俗世の清潔なる蓮に悪沾たず」[1]とおっしゃっています。修煉者はどこにいても、この心を修めるだけです。

 家の衛生環境がよくなければ、専業主婦の私は当然家族からあれこれと指摘を受けます。今まで私は何回も静かに「我慢」してきました。

 ある日、夫は「あなたはますます怠けてきたね。家のあっちこっちが汚くて見ていられない」と言いました。私は我慢できず「私には時間がないことをあなたも知っているはずだわ。学法煉功、それに衆生を救いに行かなければならず、あなたが思うほど楽じゃないのよ」と言い返しました。 

 この関を乗り越えることができなかったため、多くの関が次々とやって来ました。「ここが汚い」とか、「何々が駄目だ」とか、しかも夫の声がますます大きく、ますます荒ぽくなってきました。何も言わなければまだましですが、少しでも言い返せば、彼はさらに大きな罵声を浴びせてきました。時々、横で見ていられなくなった息子が弁明してくれるので、それを聞くと私はさらに悔しくなり、自分が修煉者であることを完全に忘れていました。 

 師父は「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[2]とおっしゃっています。私は法を日々学び、暗記までできているのに、いざトラブルが現れると、よく耐えたときもありましたが、大半の場合は耐えることができませんでした。

 自分がしっかり修めていないため、夫の気性はますます激しくなって、特に食事の時に、ほぼ毎日の三食の食卓で、おかずが口に合わないと不満をこぼしていました。このようなことが日々繰り返されているうちに、私の人心は全部引き起こされました。ある日、私は彼にこう言いました。「おかずに対する要求は少し低くしたらどうなの。レストランのレベルを要求しないでよ」。これを聞いた夫は激怒し、拳を上げて私を殴ろうとしました。私はすぐに頭を下げて「間違った。また我慢できなかった」と思いました。

 ある日、夫の機嫌が少し良くなったのを見て、私は穏やかに話を持ちかけました。「私が間違っていました。あなたに一々口答えすべきではなかった。でも、あなたも気性を改めた方が良いと思うわ。今の私たちの幸せは、師父と大法が下さったもので感謝すべきです。修煉前の私は病気だらけで、家族に苦痛と貧困をもたらしていたわ。だけど、修煉によって健康を取り戻した私は、一生懸命に家事をしていますよ。あなたは多くの不満を口にすべきではないわ」。これを聞いた夫は黙り込んで、数日間、静かでした。しかし、しばらくすると彼はまた元の通りに戻りました。

 今度、私は娘(同修)と交流をしてみました。「あなたのお父さんって理解できないわ。普段、あんな怖い顔を見せても、大法のことをする私をずっと支持してくれている。彼自身もよく大法のことを手伝ってくれたわ。彼の大法に対する態度を見て、将来きっと救われて福報も得られると、私は嬉しく思っているの。でも時々、彼の悪い態度を見て、本当に心が穏やかになれないの」。娘は「お母さん、なぜわからないの? これは乗り越えるべき関だよ。お母さんはまだこの関をしっかりと乗り越えていないから、お父さんの態度も変わらないのだと思うよ」と諭してくれました。

 その後、私は絶えず内に向けて探し、こう思いました。「私は修煉者だ。誰にでもよくしてあげるべきで、心をおおらかに、衆生にも家族にもよくしてあげるべきだ。今の世人は皆師父の身内で、師父が救おうとされている人々だ。私と深い縁で結ばれている家族はなおさらだ。彼は修煉していないが、大法の偉大さと素晴らしさを知っている。日々大法のことを行なっている私を支持していることだけ見ても、私は彼にもっと優しく、もっと寛容であるべきだ」

 このように認識を改めてから、夫が再び怒り出した時、私は淡々と対処できるようになり、心の中でこう思いました。「私は必ずこの関を乗り越える。必ず随時に自分の言動に注意して心性を守り、いかなる生命の妨害も受けない」。師父はこのようにおっしゃっています。「人間の佛性とは善であり、慈悲として現れ、何かをするときにまず人に配慮し、苦痛に耐えられることとして現れるものです」[3]

 学法を通じて、私は大法に対してさらに深い認識を得ました。そして随時に自分を修煉者としてみなし、トラブルに遭えばすぐに内に向けて探し、他人を見ずに自分自身を見つめ、絶えず自分をしっかり修めて初めて修煉者の基準に達し、周辺の物事に変化を起こすことができると分かりました。

 私が変わってから、家の中にも変化が起きました。娘と一緒にオートバイで辺鄙な地区に衆生を救いに行くのに、通常3時間ほどかかります。娘にはいつも私たちと一緒に行動する2歳ほどの娘がいて、遠路の途中で悪戯(いたずら)したり、もんちゃくを起こしたりして、私たちに多少の不便をもたらすことがしばしばありました。この事情を知った夫は仕事が忙しくない時、自ら孫の面倒を引き受け、買い出ししたり、ご飯を用意してくれるようになり、私たちに衆生を救いに行く多くの時間を作ってくれました。

 個人的な体得ですが、修煉者として、私たちは必ず師父のお話に従って法をしっかり学び、法に従って行動し、絶えず自分を向上させ、絶えず自分をしっかりと修めるべきです。そうして初めて、より多くの衆生を救うことができます。

 偉大なる師父の慈悲なるご加護がなければ、弟子は今日まで歩むことができなかったはずです。大法の指導の下で、弟子は随時に内に向けて探し、真に修煉者の次元での「忍」をやり遂げたいです!

 注:
 [1]  李洪志師父の詩:『洪吟三』 「修煉の形式」
 [2]  李洪志師父の著作:『精進要旨』 「忍とは何か」
 [3]  李洪志師父の著作:『精進要旨』 「佛性と魔性」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/2/1/357752.html)
 
関連文章