文╱中国の大法弟子
【明慧日本2018年3月22日】最近、長春の報道文章を整理していると、一つの問題に気付きました。一部の人は同修を救出する際、迫害を受けた同修の家族の生活がいかに苦しく、可哀想で、その家庭環境がいかに苦難に満ちていることばかりを強調し、それによって警官の同情を得ようとしているのです。しかも、そのような傾向の文章が少なくありません。
個人的な考えでは、このような文章は、大法の素晴らしさを実証し、法輪功を修煉するのも、真相を伝えるのも合法であることを実証し、無条件で法輪功学習者を解放するように正々堂々と要求する同修達の努力をある程度帳消しにしているのではないかと思いました。
考えて見てください。もし、警察、検察、裁判所の人達に迫害された同修の家庭状況を同情してもらえなければ、そうすれば、世間の人に大法の真相も知ってもらえず、逆に大法弟子を軽蔑させてしまうのではないでしょうか。一方、もし、警察、検察、裁判所の人達が迫害を受けた同修の特別な状況に対して同情し、それによって、ある程度迫害を軽減してくれたとしても、それは警察、検察、裁判所の人達の同情心を実証しているだけで、法を実証していません。そして、彼らが大法の真相を知ることによって救われる事もできません。私達はいったい何を実証しているかを考えなければなりません。同時に、特別な状況のない同修はどうすればいいでしょうか? 迫害されるべきでしょうか? それはこのような同修に圧力をかけることになるのではないでしょうか?
このようなやり方は、やはり中国共産党の目前の功を急いで目の前の利益を求めるような利己的なやり方に影響され、個別の案件の結果にこだわり、全体の立場に立って法を実証しようと考えておらず、他の同修のためにもっと考えてあげるのではなく、本当に心から警察や世間の人々の救い済度を考えていないのです。このようなやり方は、一部の弁護士が法輪功学習者のために弁護している時、まず罪があるということを前提に、出来れば迫害を軽減させたいという考えと同じのではないでしょうか。
長春市の裁判所、検察院はずっと弁護士が法輪功学習者の資料を閲覧し、無罪弁護することを妨害しています。それは警察、検察、裁判所に対して、大法の素晴らしさ及び修煉の合法性について充分に真相を伝えていないことと関係がありますが、一部の同修は自ら修煉の合法性について、まだしっかり認識しておらず、正々堂々と大法の素晴らしさを実証すべきだと認識していないことと関係があるのではないでしょうか? 迫害を人間が人間に対する迫害と理解し、人間の方法で個人に対する迫害を軽減させようという考えに留まり、世間の人々を救い済度する立場に立って、無条件で、代価を求めず、無私で真相を伝える境地に到達していないのではないでしょうか?
警官も、この世の中では仕事と役柄が違うだけです。警察、検察、裁判所の人達の分かる一面が真相を聞いて救われることを待ち望んでいます! 正念と慈悲なる気持ちを込めた1本の電話、1冊の定期刊行物、1通の手紙、それらは絶えず彼らを浄化し、変化させています。
一部の同修は警官に対して未だに闘争心と対立心を持っています。個人的な考えでは、私達は、迫害が大法弟子に、そして社会に、甚だしきに至っては警官達にもたらした大きな被害を話すべきで、また、正念を持って警官らが犯罪を犯していることを指摘し、彼らが将来清算され、悪報を受ける状況に直面すると言うべきです。私達の心の原点は彼らが救われるため、彼らの将来のために考えることにあります。善と慈悲の巨大なエネルギーは人を変え、救うことができるのです。
もし同修達が全体的に法に則って高めることが出来れば、環境を変えることができるし、もっと多くの衆生を救う事もできるのです。
個人的な体得です。適当でないか所があれば、ご叱正をお願いします。