いわゆる「病業」について考える
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年5月9日】ある日、同修と交流する中で私はこのような質問をしました。「『突然、一陣の熱い流れが頭のてっぺんから下へと全身を駆け抜けていく』[1]と感じたら、あなたは何を考えますか?」。同修は「師父が灌頂して下さったので、師父に感謝を申し上げます!」と答えました。「もし、突然頭がズキズキし出して気分が悪いと感じたら、あなたはどう考えますか?」と聞くと、同修は「これは旧勢力による迫害です。認めてはならず否定すべきです」と答えました。(「これは業を滅している過程だ」と考える同修もいますが、本文では前者について述べます)

 上記のどちらも身体で受ける感覚ですが、なぜ心地が良ければ師父による励ましと加持で、気分が悪ければ「旧勢力による迫害だ」と思われてしまうのでしょう? 「気分が悪い」という一念は、師父がおっしゃっている「しかし、体調がすぐれないと、すぐ病気にかかったと思い込む人もいます」[1]と情況が似ているのではありませんか? 身体に不調が現れると、すぐに旧勢力が押し付けてきた「病業」形式の迫害だと思ってしまいます。

 身体に現れる突然の不調に対して、人々は異なる反応を見せます。

 常人なら、「どこかに問題があるのでは? 病院に行って検査を受けなければならない」と考えるでしょう。彼は心配し、怖がるのです。 

 修煉者なら、「これは業を滅しているのだ」と考えます。なぜなら師父は「修煉においては、業を消去しなければなりません。業を消去するには苦痛を伴います」[1]と説かれました。

 一部の修煉者は「功が伸びているのだ」と考えます。なぜなら、師父は功が伸びることに関してこうおっしゃっているからです。「全身に電気が通ったり、冷たく感じたり、熱く感じたり、しびれたり、重くなったり、回る感じがしたり、あまりにも多くの状態があります。感覚の上では全身に不快感を覚えます」[2]

 さらに、「私の何かの執着によってトラブルを招いてしまったのでは? 内に向けて探し、人心を取り除かなければならない」と考える修煉者もいます。

 上述した修煉者たちはきっと師父に対して感恩の心を持っています。なぜなら、彼らは「苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです」[3]と知っているからです。「この一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」[1] その後の事態の発展も、動じたその一念が人間の念なのか、または神の念なのかによって異なります。

 出来事に遭遇するときに持つ念は極めて重要です。なぜなら、師父はこのようにおっしゃっています。「一つの生命の選択は自分自身の意思によって決められるということです。歴史上何かの願いを立てたことがあるにしても、肝心な時、やはり自分の意思で決めなければなりません」[4] あなたはどの道を歩み、どれを選択しますか? あなたはそれを何かと思い込んでしまえば、その後きっとそれに直面し、経験することになります。

 ある60歳を超えた年配の同修は煉功してから生理がまた来ました。彼女は自分が病気に罹ったと心配になって病院に行きました。当然、何の病気も見つかりませんでした。無駄足を運びたくない彼女は5000元ほどを払って避妊リングを外してもらいました。その後の学法を通じて彼女はやっと自分の間違いに気づき、「あ、前回の生理は師父が説法の中でおっしゃった『年配の女性には生理がまたくる』というケースではないか?」と思いました。そもそも良いことだったのに、彼女は人為的に自分自身に一難をもたらしてしまいました。

 人間として誰にも「自己保護」の心理があります。何かを恐れていれば真っ先にそれを思いつくのです。怖がれば怖がるほどそこに気が行ってしまい、できるだけ未然に防ごうとするのです。

 身体に不調が現れる時、最初に思いつく一念が「体の浄化、功が伸びている」ではなく、「旧勢力が按排した病業の関だ」であれば、内に向けて深く探していくと、内心にはきっと「病気ではないか?」という執着があるはずです。そうであれば、旧勢力は正々堂々と自分のやり方であなたが今後歩む道を按排していくのです。あなたが恐れることは必ずやってくるし、あなたの執着する念もますます強くなるのです。あなたが「病気ではないか?」と思えば、それはますます病気らしくなってきます。あなたがそれでも悟らず、病状に頓着するなら、それはどんどんひどくなっていきます。正念が強くなければ常人の道を歩んでしまうこともありえます。そうなれば、本当に旧勢力が按排した道を歩むことになるでしょう。

 多くの場合、私たちは身体の病状に対して発正念を行ないます。しかし、しばらく正念を発しても病状が好転しなければ、一部の修煉者は師と法に対する信念が揺らぎ始め、怨む心を抱く人さえ出てきます。同修よ、考えてみたのでしょうか? その時のあなたの発する「正念」は身体の「不調」という表面上の現象を否定、解体するためにあてられている一方で、あなたの「心地よく、スムーズに、苦を嘗めたくない」という心が旧勢力によって隙に乗じられたのではありませんか? 結果的に、これは自分の人心によって自分にトラブル、魔難を招いてしまったことになります。

 旧勢力による妨害とは何でしょうか? 自分が直面し、向上すべき関とは何でしょうか? 師父は説法の中で明示されています。「もし大法の事を行なう時、衆生を救い済度するという肝心な時期に、何かが起きたらそれはきっと妨害なのです。自分で理性的にそれを判断すべきです。自分が苦しみ、辛くなったら、それがきっと妨害だということに執着しないでください。辛くなり、苦しんでいればそれを承知しなくなり、正念を発するということをしないでください」[5]

 「旧勢力がやったことを私はすべて否定し、認めません。大法弟子が苦しみに耐えるような事はことさらあってはいけません」[6]と師父はおっしゃっています。師父は弟子たちに「病業」を按排されていません。また、私たちが真に修煉し始めたとき、師父はすでに私たちを無病状態にまで押し上げて下さいました。さらに、師父は「『病気』という言葉さえ聞きたくありません」[1]とおっしゃっています。ならば、なぜ私たち自身はいつまでも「病業」を考えてしまうのでしょうか?

 明慧ネットでこのような文章を読んだ覚えがあります。ある同修夫婦ですが、奥さんが腰(脚かもしれません)にできたこぶを主人に見せようとしたとき、主人は「見なくても大丈夫。それは仮相だから」と言いました。これがまさに正念です。皆さん、自問してみて下さい。それが仮相ならば、なぜ私たちはよくそれを「真実」として扱おうとするのでしょうか?

 「病業」の魔難を乗り越えた同修はよく心底から師父に感謝し、同修の助けに感謝し、身に起きた巨大な変化を持って世人に大法の素晴らしさを実証できたと思うのが常です。しかし、別の角度から考えて見れば、同修は衆生を救う貴重な時間をあなたのために精力を割き、師父もあなたのために心労されたのではありませんか? もし、強い正念を持つことができず、常人の手段に頼ってしまえば、この問題において次元が落ちたことになるのではありませんか? 改めて考えれば、「病業」を乗り越える過程は法を正す師に手伝うこと、衆生を救うこと、そして私たち自身の修煉にも損失をもたらす以外、何の役にも立たないのではありませんか? これは絶対に師父が望まれていることではないと思います。

 さらに角度を変えて考えてみましょう。身体に不快感があったらすぐに「妨害だ、迫害だ」と思いつき、なぜそれが「浄化、功の伸び」だと思わないのでしょう? 「苦痛、しんどさ」に耐えたくない心があるのではありませんか? 家族から「病院に行こう」という圧力を受けて突破できなければ、肉親の情を乗り越えていないのではありませんか? 苦痛などに耐えたくなければどんな結果になりますか? 修煉における向上でしょうか? それとも次元が落ちることでしょうか?     

 師父はこのようにおっしゃっています。「大法弟子はなぜ修煉しているのでしょうか? なぜ関を乗り越えなければならないのでしょうか? なぜ正念を強く持つ必要があるのでしょうか? なぜ苦しみを味わう必要があるのでしょうか? このようにしてはじめて、修煉だと言えるからです。実は修煉はほかでもなく、苦を嘗めるためにきたのであって、この世での保護を得るためにやってきたのではありません。大法を学ぶと守られますが、大法を修煉するとき苦も嘗めなければなりません」[7]

 皆さん、自問してみましょう。「修煉は苦を嘗めることなので、私にはそのような心の準備ができたか?」。修煉は本当に楽なことではなく、修煉の決心がついたなら、どんな苦にも耐えていく心の準備が必要です。この問題について、真剣に再考しましょう。

 各方面において良好な状態を保ちながら三つのことを実行していきたいのは皆の望みです。師父は三つのことの実行を私たちに要求されていると同時に、私たちの向上も待っておられています。そして絶えず向上して初めて三つのことをより良く行なっていくことができます。その向上には、「苦労と魔難」が必ず伴うのです。

 「苦を嘗める」ことについて、個人的な理解として、それは「苦しく修めていく」のではなく、苦を恐れない境地、心性を得ることで、耐えると同時に、心性の向上を目指すのです。「苦を嘗める」ことは「忍」の一部分でもあると私は理解しています。「忍」には我慢する、耐え忍ぶ、譲る、忍耐強く頑張りぬくといったことが含まれていると考えています。修煉者の「耐え忍ぶ、犠牲、苦を嘗める」ことは常人の次元の概念では、それが昇華の「階段」で、返本帰真の「船」です。

 学法を通じて私はこのような一念を持つようになりました。「修煉中の人にとって、変化は必ず良い事」なので、私は身体に現れる情況を「業を滅している、身体の浄化、功が伸びている」などの良い事だと考え、人体が神体へ転化していく過程の正常な現象だと受け止めています。さらに症状が強ければ、「もっと多くの業を滅そう。もっと大きな変化が現れようとしている」と考えます。身体の苦痛を感じながら、心は愉快でした。

 数日前の早朝の座禅中に、脳のある長方形の区域にいきなり激痛が走り、私は「また一層の天体が浄化された」と思い、静かにそれを味わう(その区域をスキャンした感じ)ことにしました。わずか数秒で、その痛みは消えました。個人的に解釈するには、それが一つの次元の状態に過ぎず、心性が向上すれば、低次元の状態も自然に消え去るのです。時々、痛みは数分または数秒で消えるのです。

 去年の8月から、私は定期的に1~2日ほど続く頭痛に見舞われ、すでに5~6回経験しました。痛みに耐えきれない時、私はほかのことを考えず、ひたすら「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」と念じ、自分の空間場にあるもっともミクロ的な粒子から最大の粒子までのすべてが法に正され、法に同化されるようにと考えました。もっとも激しい痛みを感じたとき、私は「師父!」と叫びました。その時に思ったのは、修煉者でない人がこれを経験すると、きっと脳が破裂するでしょう。幸い、自分は今生で師父の弟子になることができて、本当に幸せです。痛みが緩和される度に、私は心底から「師父、ありがとうございます」と申し上げました。その過程で私は一度も悪い方向へ考えたことがなく、「これが浄化で、師父が弟子に与えられるものはきっと最も良いものだ」と考えました。じっくり観察してみると、痛む度合いは徐々に弱まってきているのです。数日前、またも痛みが出ようとしたとき、「あ、また浄化が始まる」と思ったのですが、結局痛みは現れませんでした。もしかしてこの層の天体の浄化が終わりに近づいているかもしれないと思いました。

 自分の身体に何かの情況が現れた時、通常、私は旧勢力などを考えません。私はこのように考えています。どんなことに遭遇しても、師父と法を思い出して正念を持って対処することができれば、たとえ旧勢力が虎視眈々と臨んできても、私の空間場では何の作用も働くことができないので、私のことは旧勢力と何の関わりもありません。 

 何回か「関」をうまく乗り越えることができず、数カ月あるいは数年経っても同じ次元に留まっていたとき、私はきっと自分の心性に問題があると思い、自分にこのように戒めていました。「この問題によって同じ次元に留まる時間は長すぎる。心性を高めなければならない。玉ねぎの皮をむくように一層一層の人心を取り除いていこう」

 師父は私たちが魔難に遭っても正念を持ち続ける心しか見ておられません。すべては師父が行なっておられます。師父に感謝し、大法に感謝します。

 交流のため、以上の個人的な考えを述べさせて頂きました。法理に沿わない部分があれば、同修のご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『ヒューストン法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」
 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」
 [6] 李洪志師父の経文:『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』
 [7] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年ロサンゼルス法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/4/4/363690.html)
 
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