文/モンテネグロの大法弟子
【明慧日本2018年5月17日】
尊敬する師父、こんにちは。
同修の皆さん、こんにちは。
私は2016年2月から法輪大法を修煉し始め、もう1人の女性も私と同時に修煉を始めました。私の知る限り、モンテネグロ(※)の法輪功修煉者は私たち2人しかいません。
修煉のきっかけ
2008年から、私は様々な精神修行に関する書籍を読み始めました。2013年に私は突然アジアの国に行き、修行を教えてくれる人をとても探したくなりました。そのとき、友達は修行の先生を紹介してくれましたが、しかしその先生は私が探しているような人物ではないと感じました。2、3回会ってから、私は先生に「どれぐらい修行をされていますか」と尋ねました。その2年後にはこの先生から離れ、自分が十字路に立ったようで、どこへ行こうとしているのか当時かいもく分かりませんでした。
その後、私はタイに観光に行きました。泊まった旅館の部屋から山が見え、そこから山にそびえる仏像が見えました。私は仏像のあるところに行き、俗世間から抜け出したい願望を語り、助けを求めました。そして、旅館に帰ると心がとても落ち着いた感じがしました。
モンテネグロに戻った後、以前、私が精神信仰を探したときに知りあった、現在セルビア在住の友達に連絡して、タイでの経験を彼女に話しました。そのとき、彼女はすでに法輪大法の修煉者になっていましたので、『法輪功』の本を勧められました。彼女に本のウェブリンクを聞き、すぐウェブに『法輪功』のリンクを見つけ読み始めました。後日、彼女はバスに乗って私に『法輪功』の本を届けに来てくれました。家に帰るのを待てず、私は街なかで立ったまま読み始めました。私は9日間をかけてその本を読み終えて、一句一文字も漏らさず頭に刻み込みました。これこそ私が探していたものだ、この本は私がこれまで抱えていた疑問を全部解答してくれていると確信しました。
修煉は専一でなければならない
その日から法輪大法の修煉者になったと自覚していますが、修煉して3カ月経った頃、私は大きな過ちを犯しました。私はある人物に出会い、彼は自分の修煉方法を話してくれました。好奇心にかられて、真面目に彼の言葉を聞きました。知らず知らずのうちに自分の修煉の中に他のものを混ぜ入れてしまったことを、この時私はまだ自覚していませんでした。
それから友達と一緒に一服タバコを吸うと体の具合が悪くなり、心の中で二つの異なるエネルギーが闘っているような感じがしました。天目を通して見ると、密度が低い功柱が私の体内から昇り、法輪が私の体内と頭のてっぺんで回っている光景が見えました。そのときの心境はとても複雑なもので、その後、一つの声が私に話しかけているのが聞こえました。翌日、頭が痛くて私は何回も床に転び、とても辛い思いをしました。
3日目の明け方、体内に何かが動いているのが感じ取れましたが、それは憑き物だと思いました。私は怖くなって、師父に助けを求めました。心の中で「私は大法弟子で、李洪志先生は私の唯一の師父です」と言うと、暫くしてその憑き物は私の体から消えてなくなりました。以上の経験は言うのは簡単ですが、その全過程はとても恐ろしいものでした。修煉するなら一つの法門に専念して、専一でなければならないと私は同修たちに忠告したいと思います。「必ず一つに専念しなければならず、他の功法の意念さえも混ぜてはなりません」[1]と師父が言われている通りでした。
試練
小さい時、私はミツバチに刺されてアレルギー症状が現れた経験があります。30歳を過ぎてから、もう一度刺されたことがありました。最初は大丈夫だと思っていたのですが、次第に刺された部位がとても大きく腫れ上がり、病院に送られた時には既に危篤状態になっていました。「今後は特に要注意です。また刺されたら死ぬかもしれない」と医者に言われました。
2017年5月、私はまたミツバチに刺されました。当時はスーパーの中で銀行に行こうとして、エスカレーターに乗り、指で髪の毛を整えていた時、指を刺され痛みを感じました。怖く思わず指に刺さった針を抜きました。内に向けて探すと真っ先に思い付いたのは「私は大法弟子です」、『轉法輪』の中の言葉、「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います」[1]を思い出しました。
エスカレーターを降りて銀行の中に入って、列に並びました。私が経験した蜂毒アレルギーによるアナフィラキシーショックを周囲の誰もが知っていません。悪い考えが浮かんだら、私はすぐにそれを打ち消しました。でもまたすぐに同僚に電話をかけて助けを求めようとの一念が生じ、頭に暫く留まっていました。ですが、同僚たちがここに駆けつけた時にはもう手遅れで、おそらくすでに死んでいるかもしれません。もし私が今ここで倒れても、人々は原因を知らないため、たとえ医者を呼んで来ても間に合わず、助けることができないだろうと思いました。
そして私は自分に「私は修煉者なので、助けを求める電話なんかしない」と言い聞かせました。あのとき、私の主意識はとても強くて、指が痛くて体がぶるぶる震えていましたが、心の中で「私は修煉者で、師父は李洪志先生です。真・善・忍が良い、善し悪しは一念によるものです」と叫び続けていました。
しばらくすると、天目を通して自分の体が佛の様相に変わったのを見ました。とても高くて体は透明で、体の周りに半径1.5メートルの場が存在しています。場の外には様々な魔がいて私を丸飲みにしようとしていますが、魔は私の場に入れません。私はこれほど高くて強くて、魔は私に対して何も手出しできず、手をこまねく(何もできかねて傍観しているさま)しかありませんでした。最終的に倒れるどころか、刺されたその指さえ腫れませんでした。私は今回の試練に合格しました。
発正念
私が発正念を始めたのは、修煉して1年経ったときです。発正念して思想業力を確かに除去したのですが、当時、発正念の方法が正しいのかどうか、邪悪を消滅する力を本当に持っているのかどうかを、新しい修煉者としてはよく疑っていました。
ある日、またその疑いに陥ったとき、『轉法輪』の中の言葉「功能というものは人の意識によって支配されるのです。寝ている時は自分をうまく制御できないかも知れませんので、もしかして夢を見れば、翌朝天地がひっくり返っているかも知れません。しかしこれは許されません」[1]を思い出しました。そして、自分の頭のてっぺんが開き、中から高い密度の功が出てきた光景を天目を通して見ました。そのとき、体は1本のパイプに過ぎず、皮膚だけが1枚の服のようだと感じました。
前に言及した画面はすべて私の(限られている次元の)天目から見たものです。修煉する前にも似たような画面を見たことがありますが、しかしその時は、画面は自分の天目に由来していると知りませんでした。
師父は「信じないからこそ、自分の見たものが絶対で、それしかないと思い込むのです。実はまだまだ先が長いのですが、彼の次元はそこまでしかないのです」[1]と説かれました。
真相を伝える
最初、どのように常人に接すれば良いか分からない、何を言えば良いか分からないなどを理由にして、私は真相を伝えることを積極的にやっていませんでした。また、外観や振る舞いなどで人を決めつけて、そのため、人に真相を伝える機会を見逃したこともあります。内に向けて自分の執着心を見つけた後、人の表面のものにあまりこだわらなくなりました。現在は大法が迫害されることを話すとき、相手は真面目に聞いてくれます。内在のものを変えたら、それによって外部の状況も変わる、まったくその通りです。
師父は『大法弟子とは何か』で、「皆さんの前に現れた以上、選択することはできません。人を救うときに選んでいれば、それは間違いです。出会ったすべての人を救うべきです。相手の身分、階層に関わらず、大統領でも乞食でも同じです。神から見れば、生命は同等であり、階層は人類社会が決めたことです」[2]と説かれています。
修煉を始めた当初から修煉はとても厳粛なことで、無条件に高い基準で厳しく自分に要求すべきであると私は思っています。修煉の成果は修煉者自身によって決めるものだと師父は我々に教えられました。関を乗り越えるときは辛いものですが、そのときは内に向けて探すことを覚えないといけません。内に向けて自分の不足を見れば見るほど、多くの執着心を見つけることができます。もしそのようなことを経験していなければ、本当に修煉をしているかどうかを自分に問いかけるべきです。
師父に感謝いたします。
同修たちに感謝します。
(※)モンテネグロ:アドリア海に面し、バルカン半島に位置する小国で、日本の福島県とほぼ同じ、2016年の人口は約62万人。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『大法弟子とは何か』
(2017年ヨーロッパ法会の発表原稿)