文/台湾の大法弟子
【明慧日本2018年5月27日】私が大法修煉を始めてから、はやくも4年の月日が経ちました。最近、同修に私が座禅をする時や発正念をする時に、頭がうつむいたまま身体が傾き、座禅や発正念をする態度が良くないことを指摘されました。私の胸がチックと刺されたように感じましたが、「ありがとう、これから気を付けます」と返事をしました。今回こそ如何なる人心も待たず、直ちに内に向けて探さなければと思いました。振り返ってみると確かに同修の指摘通りで、煉功する時あれこれと妄想を逞(たくま)しくしていて、心を静めることが出来ないでいました。
師父は次のように説かれました。「入静できない根本的な原因は、方法にあるわけではありません。何か奥の手があるわけではなく、その人の考えや心が清浄でないからにほかなりません。常人社会の中で、人と人とのトラブル、個人の利益や七情六欲、さまざまな欲望への執着のために、人と争ったり闘ったりする、こういうことを捨てられなければ、こういうことに対して淡泊になれなければ、入静しようと思うなど、とんでもないことです。「そんなことは信じない。わたしはあれこれ考えたりせずに、入静しなければならない」と、練功する時に自分に言い聞かす人がいますが、そう言い終わらないうちに、またもやあれこれ湧いてくるのです。心が清浄でないので、入静できないのです」[1]
師父のお言葉通りです。普段、私は常にいろんな欲望を抱え、他人と争うことを好み、その心を放下できず、その心が清浄でないゆえに、自分の心を静めることが難しかったのですが、必ず清浄心を修めなければならないと自分に言い聞かせました。
今年のお正月に、北部にいる子供や孫たちは皆、家に戻り、家族一同十数人が集まって、食事をしながら世間話をして、賑わいました。しかし、自分でなにか不適切な言葉を発した認識がありませんでしたが、突然、主人が顔をこわばらせて、きつい言葉で子供たちの前で私の落ち度を責め立て初めました。そこで私も譲らず、「あなただってそうじゃないの」とつい口答えをしてしまいました。これは厄介なことを招いてしまったと気づきましたが、もう手遅れです。主人は激怒し、普段から溜まっていた私への不満を一気に爆発させました。すぐ息子が仲裁に入りましたが、何の効き目もありませんでした。この出来事を通じて、自分のたくさんの良くない人心が見えました。特にトラブルに遭遇した時に、すぐに内に向けて探すことが出来ず、自分が修煉者であるということをすっかり忘れていました。
師父のお言葉を思い出しました。「ですから、いざこざが起ったときに、各自は内に向いて自分の原因を探さなければなりません。この事はあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらずあなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もしこの事があなたと絶対に関係なく、あなたに取り除くべき心を持っていなければ、この事があなたの周囲に発生することはめったにありません」[2]。主人との間でトラブルが起きた事は偶然ではないことが分かっており、必ず自分の修煉を向上させる要素が何か入っていると思いました。
内に向けて探すと、気持ちを落ち着かせて息子に「お父さんに謝りたいの」というと、息子は嬉しそうに私についてきました。主人の怒りはまだおさまっていませんでした。嫁さんが傍で主人を慰(なぐさ)めていました。私は主人の前に行き、「ごめんなさい、自分がいけなかったことが分かっていながら、つい他人のせいにしてしまい、責任から逃れようとしました」と謝りました。嫁さんも「お母さんが自分の過ちを認めたのだから、もういいでしょう」と言わんばかりに、主人をなだめました。すると、主人の顔の表情も穏やかになり、軽く頷きました。
すると、小5の孫がこぶしを握った両手を高く上げ、大声で「イェーイ、関を乗り越えたね」。それを聞いて、私はとても驚きました、孫でさえ、これは心性の関だと知っていたのです。私自身も気づき、内に向けて探すことで、心性の関を一つ乗り越えることが出来ました。子供や、孫の前で恥をかきましたが、多くの良くない人心、その中には面子を重んじる心、他人の指摘を受け入れたくない心、誇示する心や顕示心、責任から逃れごまかす心、さらに強い闘争心など、これらの多くの執着心や、多くの良くない心が認識できて、一つ一つ取り除くことが出来ました。
以上は、私の最近の修煉の心得です。同修の皆さんと交流して、適切でないところがあれば、慈悲なるご叱正をお願いいたします。
師父、ありがとうございます。
同修の皆さん、ありがとうございます。
注:
[1] 李洪志师父の著作: 『轉法輪』
[2] 李洪志师父の経文: 『ヨーロッパ法会での説法』