明慧法会|真の修煉者になる
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 文/海外の大法弟子

 【明慧日本2018年8月20日】私の修煉過程は、西洋社会で大きくなった青年弟子の典型的な修煉過程です。私が7歳の時、友人の勧めで両親が修煉を始めました。そして、両親が学法煉功する時、私も一緒に行いました。そして、私は『轉法輪』の中で説かれている原則に同意し、それが当たり前のことだと思っていました。しかし、私には突然悟った状態や嬉しさの涙はなく、人生を一変させるほどの経験も感じませんでした。また、取り除くべき病気もなかったので、多くの大法弟子のような健康を取り戻した経験もありませんでした。

 師父は『轉法輪』の中で「簡単に手に入れたからといって、簡単にそれを失ったりしないように」と説かれました。

 もしかしたら、私は快適な暮らしにより自慢の心が生まれ、自分が得た物を粗末にしていたのかもしれません。私は人生のほとんどを実際には、両親と他の大法弟子と共に歩みましたが、積極的に自分を修めたり、自分の修煉に責任を負うこともありませんでした。そして14歳の時、私は家から遠いところにある全寮制学校で学びました。それからは、両親から法を勉強するように促されることがなくなり、他の同修もいなくなり、私は次第に大法から離れ、常人のような生活を送っていました。空き時間のほとんどを友人とゲームをして遊びました。しかし、唯一、私と大法を結びつけていたものは、たまに英文明慧に送っていた翻訳文章の校正でした。

 着実に修める

 私は精進していませんでしたが、頭の中には「自分は修煉者である」という一念がいつもありました。そして、法会の後はいつも、短い間だけ意識を取り戻しましたが、すぐに常人の生活に戻ってしまいました。

 大学1年の学期末、仲のいい数人の友人に真相を伝えるべきだと思いました。そこで、私は数人の友人に大法の原則を伝え、大法がどのように修煉者に、さらによい人に変わるように教えているのかを伝えました。すると驚いたことに、友人の1人が「あなたがそのような善の心を持っているようには見えないけど」と言われました。

 私はどのように答えて良いのかわかりませんでしたが、友人の言っていることが正しいことはわかりました。なぜなら、私はいつも暴力的なコンピュータゲームをし、その中には人を殺害するシーンがあったからです。そして、勉強も一生懸命勉強したわけではなかったからです。多くの方面において、私の振る舞いと道徳基準は、真相を伝えようとした常人にも及びませんでした。それでは、私はどのように友人たちに救えばいいのでしょうか? どのように法を実証すればいいのでしょうか? 大法弟子を自称することは大法の信頼を破壊しているのでしょうか? この経験で、私は初めて反省しました。振り返って見ると、私はいつも両親やほかの同修、そして師父(幸運にも師父の説法を拝聴した)などの外的な要因の影響を受けていました。しかし、自分の修煉に対して責任を持ったことはありませんでした。

 ある夏の日、違う町に仕事に行きました。すると、ある日のこと、私の居住区域が突然停電しました。その時、私が唯一できたことは『轉法輪』を読むことで、それは電気を必要としなかったからです。そして「これは、私が技術と娯楽に対する執着心を取り除く良い機会なのだ」と気づき、『轉法輪』を心を静めて勉強し始めました。

 この時、私の学法は過去の学法と違い、自分から進んで学法していました。そして、自分の変化に気づき始め、テレビゲームと欲望に執着しなくなりました。同僚が車を止めて料金を払わなかった時、私がお金を払い、誰も罰金を徴収しないとわかっていてもお金を払いました。また、職場に勤務する時、最もいい停車位置を競って奪うことはしなくなりました。私は喜んでいい停車位置を他の人に残すようになりました。

 これらの変化は小さく、吹聴する価値もありませんが、私にとって重要なことは、自分の行為を故意に変化させていたのではないことです。それは表面的な善良さを装っていたのではなく、心から変化していました。私は超常的なことは何も経験しませんでしたが、私の力を唯一本当に、向上させることができるのは、大法だけであることをよく知っていました。この一念は、師父と大法に対する信念を樹立させていきました。

 名と利に対する執着を修煉して取り除く

 私は小さい頃から学法を始めたので、ずっと名と利に対して淡白であると思っていました。なにしろ私の人生のほとんどが学生であり、特に人に誇示する特殊な才能もなかったからです。しかし、大学を卒業してから、事情に変化が生じました。

 師父は『轉法輪』の中で「若者が自分を制御するのは、なおさら難しいことです。日頃はなかなか良い人で、常人社会で大した能力を持たない時は、名利心にも淡泊でした。いったんまわりから抜きん出ると、名利に惑わされやすいのです」と説かれました。

 仕事をして3年経たないうちに、管理職に昇進し、職員はみな私より年上でした。そして、自分の能力は師父が与えてくださったものだとわかっていましたが、こんなにも早く職務のランクアップを得られた自分に対して、誇りに感じていました。

 この職務のランクアップは、私たちの会社の正常な人事異動ではなかったので、肩書きの変化と給料の増加は遅れるだろう、と言われました。そして1週間が経ち、また1週間が経ち、さらに1週間が経ちましたが、状況は何も変わりませんでした。私がそれを問い正すと新しい進展はない、と告げられました。

 師父は『轉法輪』の中で「ですからわれわれは自然に任せるように言っているのです。時に、それが自分のものだと思い、他の人もあなたのものだと言ってくれても、実際はあなたのものではない場合があります。あなたは自分のものだと思い込むかも知れませんが、最後になるとあなたのものでなくなります。その点から、そのことに対してあなたが無頓着でいられるかどうかを見ますが、無頓着でいられなければそれは執着心なので、この方法を用いて利益にこだわる心を取り除かなければならないのです。そういうことです。常人はこの理が悟れないので、利益をめぐって争ったり、闘ったりするわけです」と説かれました。

 師父がすべてを加護してくださっているので、自分の職務のランクアップに対して心配する必要はない、と気づきました。そして、二度と心配はしないと決心し、通常通りに仕事をしました。

 次の日、私の職務のランクアップの件はすべて処理された、と告げられました。給料の増加分は、私の職務がランクアップされた日から充当されるように決定されました。私は「自分の執着心を取り除くのを、師父はずっと待っておられたのだ」と気づきました。

 自分を実証しようとする心を取り除く

 私は良い修煉者ではありませんでしたが、大法を実証するプロジェクトで使うことの出来るいくつかの才能を、確かに持っていました。そこで、自己を実証しようとする心と自分をひけらかす心がだんだんと生じてきました。

 本物の英語を話し、中国語を読み書きできる人間として、文章を書くことと関係のある異なったプロジェクトから常に誘われ、その中には英文明慧もありました。校正者として、後に編集者として自分が、私たちの翻訳の品質にとがめだてするようになったことに気づきました。最初は、グループのメンバーにとても長い意見を書き、メンバーたちの誤りを指摘しました。そして、毎週の会議でも私は同じことを行い、翻訳がよくないと感じた文章に対して、あれこれと口出ししました。

 意見を言うこと自体は間違っていませんでしたが、私の努力は真に無我無私であるわけではありませんでした。多くの場合、私の出発点は自分自身を実証するためであり、法を実証するためではありませんでした。そして、私たちのウェブサイトの品質を向上させるという名義で話をしていましたが、私の話し振りには負の要素が充満しており、その中には自分の独りよがりと気の短さが含まれていました。

 私はとがめることを止め、それぞれの文章の力と美しさを見るようになり、翻訳者と校正者の努力を見るようになりました。すると、私たちの翻訳者が、さまざまな困難を克服してきたことがわかるようになり、私たちの校正者が、努力して文章をさらによく改めてきたことがわかるようになりました。翻訳者と校正者たちは最大限の努力を尽くしていました。

 それで私は、自分の観念に基づいてそれぞれの文章に要求することを止めました。そして、文章の作者が表したかった情報が、よりよく伝わるように出来る限りのことをしました。会議では長談義で説教しなくなり、逆に討論に加わって他の人を励まし始め、異なる意見を発表し、私たちのグループは一つの全体として向上してきました。それに加えて、文章の欠点についてケチをつけなくなり、私自身を励ましてくれたり、文章がよくできた部分を見つけるように尽力しました。

 自分を実証しようとする執着心は、公衆に対して演説する上での恐怖として具現しました。なぜなら、私は内向的で内気であったからです。初めて大勢の人の前で話をした時、私は一言もきちんと話すことはできませんでした。そして、ある学術会議に招かれて話をした時、自分がうまく話せるかどうか、とても心配しました。

 しかし、この恐怖が自分に対する執着心に根差していることに気づき、特に自分の名声に対する執着心であることに気づきました。そこで、招かれて参加したこの会議は、自分のために演説するのではなく、私は大法弟子であり、真相を聞くのを待っている衆生に伝え、法から来た知らせを伝えなければなりませんでした。そして、観念を改めた後、自分を実証するのではなく大法を実証していることに気づき、何事も恐れなくなり、順調に自分の演説をやり終えました。

 人心の代わりに正念を用いる

 日常で出会った人に真相を伝える時、何から話すべきなのかがわからず、その人が受け入れてくれるかどうかがわからず、私が話そうとしていることが今話している内容と関係があるかどうか、がわかりませんでした。

 ある時、レンタカーを借りる時、受付の人に真相を伝えようか躊躇しました。なぜなら、その時、臓器移植の資料しか持っておらず、この話題を提起すべきかどうかがわからなかったからです。

 その後、やはり受付の人たちに真相を伝えようと決心し、再び中に入っていきました。そして、私がこの話題を提起すると、その場にいた3人の社員はまじめに聞いてくれ、質問をしてきました。そこへ社員たちの社長が出て来て、社員の1人に、約束の会議がもう始まっていなければいけない時間だろう、と告げました。するとその社員は「いいえ、私はこの話が聞きたいのです。この話はとても重要です」と言いました。

 私は感動し、真相を伝え終えた後、社長たちの時間をとってしまったことを話し、社長に謝りました。すると、社長はもう怒っておらず「大丈夫ですよ!」と笑って言いました。

 師父は『北ヨーロッパ法会の全ての学習者へ』の中で「社会で接触するすべての人がみな、真相をはっきりと伝える対象であって」と説かれました。

 今回の経験で、衆生はみな私たちが真相を伝えるのを待っているのだ、ということがわかりました。ですから、自分の人心で自分の邪魔をしてはいけないのです。

 結び

 過去の数年間、大法から離れてから、自分の修煉に責任を負うまでの過程を経験しました。明慧というプロジェクトが、私の修煉状態が最も悪かった時に私と大法をつないでくれ、自分の執着心を認識させてくれ、除去する手助けをしてくれたのです。そして、私は引き続き内に向けて探し、自分の思想を清らかにし、行うすべてのことを法理に基づかせています。

 (2018年明慧法会の発表文章より一部の内容を要約したもの)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/10/370786.html)
 
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