文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年11月14日】旧正月のとき、私はある交流会に参加しました。交流の中で多くの同修は長い間家庭内のトラブルを乗り越えられず、個人修煉からも突破できず、法を正すことと人を救うことにまで影響されていると話しました。
また、一部の同修は師父の要求に基づいて、毎日三つのことを行い、三退させた数も少なくないというのです。しかし、体の状態が良くなるどころか、逆にだんだん悪くなりました。そして、このような現象が各地区にもあり、甚だしい場合には、命を失った例もあります。
今の多くの同修は「学法しても何も悟らないときがあります」とよく言います。この話を聞いた後、私は個人的な悟りがあります。つまり、正悟は信じることから生じると思います。もし、法理を悟ることができない場合、私達は自らに問うてみてください。大法を信じていますか? 今日まで歩んできて、もし誰かに師を信じていないことや、法を信じていないことを指摘されると、ほとんどの人は認めないかもしれませんが、実生活の中での同修たちの行いから見れば、これらのことは100%師父を信じることであるとは誰も思わないのです。
師父は「自分の悟りというのは、修煉の中で困難にぶつかって、克服してから引き続き修煉していくことです。これはあなたの悟りと言います。本当に理から何かを悟ります。もしこの法があなたに分からせないならば、あなたがいかに悟りたくても悟ることはありません。ですから必ず一つの条件を備えなければなりません。すなわちあなたは必ず真に修煉していかなければならないのです」[1] と説かれています。
大法を修煉し始めたとき、師父は「ここでは『気』を練ることなどはしません。あなたはもう低い次元のものを練る必要はないのです。われわれは皆さんの身体を無病状態にまで押し上げていきます」[2] と説かれました。しかし、私達の体の調子が悪くなったとき、すぐ病気だと思いがちです。
師父は「もし全ての学習者が皆このようにできれば、皆さんに教えますが、同時に正念を発するその五分間で、邪悪は永遠に三界内に存在しなくなります」[3] とも説かれました。しかし、私達は発正念の威力についてもよく疑っています。
もし私達が師父の説法を100%信じることができなければ、法理を現すことができません。そしてその他にも、私達は時々刻々内に向かって探すことによって、魔難を乗り越えられ、深い法理を悟ることができると思います。ここでもう一度、師父の説法を再びよく学んでみましょう。
師父は「ですから、いざこざが起ったときに、各自は内に向いて自分の原因を探さなければなりません。この事はあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらずあなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もしこの事があなたと絶対に関係なく、あなたに取り除くべき心を持っていなければ、この事があなたの周囲に発生することはめったにありません。もしあなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません。周辺に起きるすべてのトラブルや、あなた達の間に現れたいざこざ、現れたすべてのことは恐らくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきことがあるのです。この事があなたのせいであるか、また彼のせいであるかを問いません。あなたにこの心がありさえすれば、あらゆる方法を尽くして、いざこざに遭わせ、このまだ取り除かれていない心を認識させます。しかしあなた達はまだ言い合っており、これが私のせいではないとか、あるいは皆自分が法を守っているとでも思っていますが、彼も自分は法を守っていると思うのです。実のところ恐らく両方とも正しくないところがあったからこそ、いざこざが起きたのです」[1] と説かれました。
またさらに、「如何なる事にあたる時も自分自身の問題として考えることができるならば、その人はとても素晴らしい人で、圓満成就まで辿る道にあなたを妨げる障害はありません。誰でも何かのことに出会った時いつでも外へ向かって探します。『あなたはなぜわたしにこのようなことをしたのか?』 心の中に不平を抱き、自分の問題を考えません。これは全ての生命にとって、一つの最大かつ致命的な障害です。いままで修煉しても向上できない、どうやって修煉して向上できるのかと悩んでいる人がいました。誰にしてもトラブルに遭遇する時自分のことについて反省しないことが最大の妨げなのです。自分が苦痛を受け、たいへん不幸な目にあったのに、さらに自ら反省して、自分のどこが間違っていたのかを探す、そこまでできるのは本当に難しいことです。誰かがそこまでできたら、この道、この修煉の道において、そしてあなたの永遠の生命において、あなたを妨げるものはありません。これは本当のことです」[4] と説かれました。
師父は私達に無条件に内に向かって探すことを明白に繰り返して教えてくださいました。しかし、私たちは内に向かって探すとき、多くの場合は条件付きです。つまり、明らかに自分が間違っている場合は、内に向かって探すことをすぐに認めますが、もしも自分が正しいと思うような場合には、自分が正しいと理詰めで押し通します。その事柄自体の中に陥いり、自分がいかに正しいかを強調します。
師父は心性の向上を第一位に置くべきであると教えられました。しかし、私達はいつも誰が正しいのか、誰が間違っているのかについて争っています。これからは、私達は自分が明らかに正しいときであっても、あるいは人に誤解されたときであっても、内に向かって自分の問題を探すことができれば、これこそ修煉者です。もちろん、こうすればきっと魔難を乗り越えることができると思います。師父は「この修煉の道において、そしてあなたの永遠の生命において、あなたを妨げるものはありません」[4] と説かれているではありませんか。
浅い悟りですが、適当でないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「米国フロリダ州法会での説法」
[4] 李洪志師父の経文:『シンガポール法会での説法』