新しい職場環境でしっかり修める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年12月14日】私は1998年から大法を修煉し始めて以来病気がなくなり全身が軽くなり、幸せな毎日でした。ところが、1999年7.20以降共産党による大法への弾圧が始まり、私も2014年に迫害され、3年間の不法な拘束が終わって刑務所から解放されましたが、銀行員の仕事を失いました。

 しばらくすると、友人の会社で資料管理の急募があり、彼女の紹介で新しい仕事を始めました。新しい職場、新しい環境の中で、私の修煉における不足が現れました。

 尊大ぶりを放下し 虚栄心を取り除く

 私は以前大手銀行に勤めており、広くて明るい環境に恵まれ、待遇も厚かったのです。それと対照的に、今の勤め先の部屋は狭く、環境も粗末で、専門の掃除員もなく、特にトイレの衛生状態が悪いのです。人の出入りも激しいので社員が安定せず、ただ目の前の仕事をやるという感じでした。

 名門大学を卒業した私は、銀行で長年経営活動分析という専門性の高い仕事を担当し、ある程度の経験があり、上層部や同僚から尊敬されていました。それに対して今の仕事は雑役にすぎません。仕事の内容や環境に大きな落差を感じた私は、自分の中に優越感と尊大ぶる心があることに気づきました。修煉者として自己を放下し、どんな環境でもどんな仕事に対しても真面目にするべきだと思いました。

 私は朝早く出勤して、先ず社長室を片付け、金魚に餌をやり、花に水をやり、机や床を拭きます。それから時間があれば同僚たちの部屋と長い廊下も清掃します。特にトイレを念入りにきれいに掃除し、皆さんが安心して利用できるようにしました。実は社長室の掃除だけは私の担当ですが、修煉者としてどこにいても良い人であり、良く行なうべきだと思いました。環境は皆さんのもので、もちろん自分も含めていて、快適な環境は仕事が楽しくなりますし、これぐらいの掃除で疲れることもなく、私は毎日自然にやっていました。ある日同僚に「文句ない、真面目にやっていますね」と褒められました。

 ある時社内会議が開かれました。真夏日で会議時間も長かったので、皆が水を飲みたくなりました。水を出す担当係が明記されていなくても、事務所の私がやるべきだと思いながら、昔から人を世話するのは身分の低い人のやるものだという観念があり、私は動きませんでした。その時一人の同僚が皆さんに水を出しました。瞬間、私は自分の重い階級観念と尊大な心を見つけ、間違ったと分かってすぐ立ち上がり、その人からボトルを受け取り、皆さんに水を配りました。

 この出来事から自分の良くない観念を取り除き、とても気持ちが楽になりました。

 損をしたくない心を取り除く

 一般的に利益の心とは金銭面を指しますが、私にとって時間や精力を人の為に費やしたくなく、損をしたくない気持ちがあります。例えば残業したくないとかです。前の銀行の支店長は仕事に情熱があり、いつも部下に残業させます。当時の私は休む時間や三つのことをする時間が削られると思い、支店長の顔も見たくないほど嫌でした。ところが、ある日突然白髪が生え始めた支店長がかわいそうに見え、トップとしてのプレッシャーを理解できるようになり、それ以降残業させられても文句なく支店長を支えました。不思議なことに、私の気持ちを変えたら、残業することもだいぶなくなりました。

 今の勤め先は国営ではなく民間の会社なので、残業に対する規則も厳しくないため、経営者としては収益のことが何より大事です。私はこのような会社が気に入らず、やる気もありませんが、ただあと4年で定年退職なので続けています。しかし修煉する中で私の考えが変わりました。「私はこの損をしたくない心を固く守って、人に触れたくないというのは本当の修煉と言えるのか? ただ休む時間を減らすだけではないか? 少し苦労するだけではないか? しかも家からも近く、通勤距離の長い同僚に比べると、これぐらいのことは何でもない」と考えてから、残業を気楽に受け入れ、一つの関門を乗り越えました。

 もう一つ損をしたくない心も見つかりました。つまり自分の役割分担以外のことで損をしたくないことです。ある時期、若手社員は皆私に会社の資料を求めました。例えば審査用の資料は元々自分たちが準備して私は印鑑を押すだけですが、私がたまに用意しているのを見て、だんだん私に求めるようになりました。私には小さいコピー機しかありませんので、1枚ずつコピーするのはとても手間がかかります。私の不満はますます膨らみ、家で息子に不満を漏らしました。息子も大法を修煉しているので、私に「それなら時間のある時にたくさんコピーして、例えば100部用意して置いて、皆さんに数カ月分使えるようにしたら解決できるでしょう?」と言いました。落ち着いて考えてみたら、仕事が少し増えるだけで、損をすることを恐れるのは修煉者ではありません。このように思った私はを損をしたくない心を放下したら、逆に私に資料を求める人がほとんどなくなり、たまにあるとしても私は喜んでやってあげました。

 ある日会社が為替報告表を提出することがありました。それを担当する若い同僚はほかの報告を準備しなければなりませんので、私に教えて今後私に作成させようとしました。それに対して私は不快に思いました。「もし今日報告書を作成したら、これからは私の仕事になってしまう。管理職でもないあなたが自分の仕事を私に押し付ける権利なんかない」と、積極的に学ぼうとしませんでした。実は私の仕事は彼らより単純で、仕事の量も比較的少ないのです。これを思った私は「仕事が増えることで疲れることもないのだ」と受け入れました。

 師父の説法に「某市の法輪大法勉強会の責任者が、大法学習者たちの煉功状況を調べるために某工場に行った時のことです。工場長がわざわざ会ってくれました。これらの従業員は法輪大法を学んでから、早く出勤し遅く退勤するようになり、コツコツと働き、上司から与えられた仕事は何でも文句無しに受け入れ、利益をめぐって争うこともなくなりました」[1] というのがありました。私は自分に与えられた仕事を真面目にしようと、報告書を作成していたら、その同僚からこの表は仲介業者のわが社ではなく、相手の会社が提出するものだと気づかされました。

 この出来事は私の「損をしたくない」心を明かすためであり、その心さえなければ、難そのものも存在しないのです。

 顕示心を取り除く

 私は仕事をするときに、いつも人に見せたいという顕示心があることに気づきました。人に見られなかったら少し延長してでもも見せたい気持ちがありました。ある日廊下の床をモップで拭いている時、ふっと「家で家事をするときには、誰かに見せて褒められようという考えはなく、頭の中で静かにしていられるのに、なぜ外では人に見せたがるのか? 人に見せびらかすことは多大な時間と精力を消耗してしまうのだ」と思い、私はさっさと掃除を終えて部屋に入りました。実は人にあれこれの心がなければ、本当に純粋で清浄な心になります

 人に言われたら喜ぶべき

 私に仕事を紹介してくれた友人は年配の女性で、2年前に知り合い、いろいろと世話をしてくれました。彼女は学歴がそれほど高くなく、話し方も少しきついので、正直言ってその性格はあまり好きではありませんでした。これは私の人を軽蔑する心の現れだと思います。私にこのような良くない心があるから、彼女も私を気に入らないのです

 ある日私はモップの下に湿気が原因で虫がたくさんいるのを見つけ、びっくりしました。彼女は嫌な表情で厳しい口調で私に「そんなに怖がらなくていい、ひ弱すぎる」と言いました。このように言われると、私も不快になり、自分が修煉者であることも忘れて大声で「虫が怖いからと言って何か悪いの?」と言い返しましたが、彼女は何も言わず、男性社員を呼んで社長室に入って虫を退治に行きました。彼女は花の鉢に虫がいると勘違いしました。「私はあなたのことをできるだけ応援したいだけよ」という彼女の言葉に、私は本当に恥ずかしかったのです。

 またある日彼女は私に「私に言われても喜ぶべきです。なぜなら、私の紹介で入ったから、人の前で公私を見せるだけなので、怒らないでね」と言いました。私は笑いながら、怒っていないと言いました。実は彼女の口を借りて師父が私を悟らせておられると分かりました。人が私に何かを言うときに、私の心性を高め、業力を消去して徳に変えてくれるので喜ぶべきで、本当はありがたいことなのです。

 今年の夏、社長の誕生日に社員たちが招待され、祝いの席で、あるベテラン公認会計士がみんなの前で、私を「この中で学歴が一番高く、公認会計士の資格を持ち、仕事に対しても真面目で、廊下もトイレまできれいに清掃してくれる。今年は子供の大学受験もあったが、仕事のために休むこともなく、子供はいい成績で理想の大学に合格した。本当に素晴らしい、我々の模範だ」と褒めてくれました。

 実は私は褒めらるたほどでもありませんが、これは師父の私に対する激励だと思いました。これからも更にしっかり自分を修めて、大法の素晴らしさを実証していきます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/24/377553.html)
 
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