実修を通して 度量をもっと大きくするように心がける
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文/遼寧省の大法弟子 縁蓉

 【明慧日本2017年6月5日】

 一、実修

 1. 期待と真逆な現実の中で、執着心を放下する

 修煉する前の私は何事においても自分を証明したいがために他人と争っていました。28歳の時、結婚してすでに何年も経ちますが、子どもが一向にできなかったため、母と法輪功を学び始めました。大法の素晴らしさと奇跡のお陰で、この千万年に一度きりの修煉の機会を得られた自分の幸運さを、密かに喜んでいました。しかしながら、重い業力と中々放下できない執着心により、精進が妨げられました。

 修煉し始めた日から、自分が何かに執着すれば、それとは真逆な結果が返ってきました。妊娠している時は、男の子が欲しいと執着していたため、女の子が生まれました。娘が幼稚園に上がり、筝(そう・琴に類似した弦楽器)を何年か習わせて、コンテストに参加できるようになった頃、「きっと金賞をもらえるわ」と思っていると、彼女の演奏はいつもと同じで3位しか取れませんでした。小学校の頃、娘の成績に執着していたため、彼女は良く合格ギリギリの成績表を持って帰ってきました。そして、彼女の目の良し悪しに執着していたがために、結局、娘は近視の眼鏡をかけることになってしまいました。

 このように何度も理想とかけ離れた現実により、何でも勝ちたがり屋の私は現実に妥協せざるを得ず、この競い合う事の好きな心理も少しずつ弱まっていきました。師父はすでにこのように説かれました。「ある程度お金を稼ぎ、家族が安心して暮せるようにしてから、何もかも打ち捨てて修行を始めたいと言う人がいますが、わたしに言わせれば、そのような考え方は妄想です。あなたは他人の生活に干渉し、他人の運命を左右することができるはずがありません。妻や子供、親、兄弟などのような家族の人たちの運命も含めて、他人の運命があなたの思い通りになることがありえるでしょうか?」[1]。私の悟性があまりにも低すぎました。今、娘は中学に上がり、何年も続いてきた心性の試練の中、私も「做して求めざれば」[2]が出来るようになってきました。母親としての責任を全うし、生活面と学習面で彼女を助け、良い方向へと導いていくようにしています。おして、成績が良い時は励まし、悪い時には以前のように、もう怒鳴ったりはしません。

 これが名利を重んじる心理で、自分を妨害していると認識し、取り除こうと決心した時、師父は別空間でこれらの悪い物質を取り除いてもらい、気持ちが楽になり、愉快になりました。今迄を思い返してみれば、テストの解答用紙を鷲掴みにして、子どもの前で激怒していた自分が、今はほど遠くなり、「昔は何でああだったのだろう」と思わず苦笑してしまいます。

 2. 娘との心性の難関

 以前、私の目の中の娘は怠け者で食いしん坊で、礼儀知らずで、行動が遅いなど、長所がありませんでした。却って彼女の方も私への要求が高く、例えば、ご飯を食べる時の音が大きいとか、彼女が来るまで食べてはいけないとか、箸でおかずを挟むときは何度もおかずを突いたり、ほじったりしないなど、たくさんの要求がありました。例えば、箸で触ったおかずを取らずに別の物を取るとすぐ娘ににらまれ、先ほど触ったおかずを私のお椀に投げ入れます。

 ご飯の時間になり、娘を呼んでも中々来ないので仕方なく先に食べると、それを見て、「私が食べないなら、誰も食べないで!」と私のお椀を奪い取ってどなり出したのです。このような事が何度もありました。

 時々、あれこれと忙しく準備をして、やっと支度を終えて椅子に座ってご飯を食べようとした途端に、娘は急にお水が飲みたいとか、スプーンが欲しいなどあれこれと要求を出してきて、私が5、6回椅子から立ち、用事をしないと気が済まないみたいです。

 ある日、ご飯を食べようとした娘が「私の箸は?」と聞いたので、「そこにあるじゃないの」とお椀の横をゆび指すと、彼女は箸を取って床に投げ捨て、「これ、洗ってない! 汚いから使わない!」と大声で怒り出しました。

 このようなことに遭うと、すぐに人心を持って対処し、結局、心が傷つき、彼女の非礼な言動を嘆き、時には大声で怒鳴りつけることもあります。

 師父はこのように説かれました。「皆さんもご存じのように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています。本当にそれができれば、あなたはもう羅漢の初級果位に達していることに なります」[1]。学法が深まり、法への認識も高まるにつれ、自分は度量が小さいから、度量を大きくしなければならないことに気づきました。悟ったので、トラブルが来ても心を動じず、平常心を保てるようになった時、娘も無理を言ってくることはなくなりました。

 そして、自分自身を観察し始めました。娘が怠惰なのは自分が今まで朝3時50分からの朝の煉功を続けてこられなかったからで、娘が食いしん坊なのは、自分が「口その執着を断つ」[2]ことができていないからです。時々お肉を食べるとお腹が痛くなりますが、少し時間が経つとやはり娘を理由に豚カツを作ってしまいます。娘の礼儀がなっていないのは、自分がいつも彼女に命令し、彼女の事を尊重していないからです。そして、彼女がぐずぐずするのは、自分が非常にせっかちだからです。

 根源が見つかりました。執着心が元凶なのです! 常にそれらの執着心を排除し、自分を変えるように努力していき、ついにトラブルに遭った時に感じる悲しみと苦しみから抜け出したとき、もう常人の心理に左右されることなく、「柳暗花明又一村」[1]の喜びを感じました。

 3. 善を修めることで大きな慈悲の心が生まれる

 私が住んでいる団地のマンションの入り口の扉は長い間ずっと壊れたままでした。すぐ隣には中華料理店があり、このお店は開店した時から今までずっと賑やかです。店員がよく店の裏口から出入りしており、休みの時間になると私のいるマンションの階段に座り、たばこを吸っていました。店員たちが仕事に戻ると、階段の所には多くの吸い殻と痰を吐いた後がはっきりと残り、非常に汚くなります。

 最初はそこの店員たちに反感を持ち、教養がないと心の底から見下し、家に帰る度に怖い顔をしながらマンションの扉を強く締めていました。しかしながら、そこの店員たちは相変わらず自分勝手に出入りしてたばこの吸い殻も片付けず、痰もそこら中に吐き出し、終いには新聞を地面に敷いてその上で昼寝をし始めたのです。

 ある日、階段を下りてきて、店員たちのそばを通った時、ふとこの人たちの事を可哀そうに思えてきました。彼らは疲労困憊し休む場所もないため、こうして仕方なく地面の上で休んでいるのです。毎日朝から晩まで10時間以上も働き、仕事から上がる頃はすでに深夜の0時を回っていました。この人たちも大変だなと思えるようになってからは、彼らに休む場所を与えようとマンションの扉は閉めないで、床の吸い殻も自分が片付ければ良いと考え直しました。

 本当に他人のことを考えられるようになった時、後天的に形成された利己心が亡くなり、そして、周りの環境も変わり始めていったのです。店員たちは吸い殻をバケツに入れ、痰を吐きだすこともなくなったのです。師父はこのように説かれました。「平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません」[1]。それからは店員たちに会っても怖い顔をせず、自然と微笑みを浮かべて会釈をすると、彼らも挨拶してくれるようになりました。後日、彼らに法輪功の真相を伝え三退を勧める時に本当に接しやすくなったと感じました。

 今回の事を通じ、善に対してさらに深い認識が持てました。善とは相手の立場になって相手の為を思い、自分が動くことに条件を付けず、見返しも求めないということで、本来生命が持っている無私無我という本性なのです。

 二、面と向かって真相を伝える中で歓喜心、顕示心理、闘争心を取り除く

 長年、人と面と向かって真相を伝えることをメインにし、電話で真相を伝えることをサブにしてきました。2015年、同修の協力の下、家に資料ブースを立ち上げることができ、真相を伝えた後に、『三退と安全』、『縁のある人へ』、『明慧週刊』などの真相資料を渡します。毎日、限りある時間で三退を勧め、少ない日は2、3人、多い時は十数人も三退しました。

 真相を伝える中で、心理状態が良くないと相手も聞いてくれなくなります。そのような時は内に向けて自分を探り、心理状態を整え、衆生を救う基点を正し、自我の心理を放下すると、皆三退に同意してくれ得意になるのです。ある日、連続で何人も三退してくれたので、知らぬ間に歓喜心が現れ、その上、今度同修に会った時、このことを自慢しようなどと言う考えまで出てきました。

 その時、道端で商売をしている60歳過ぎのお爺さんを見かけ、すぐに真相を伝えました。しかし、まだ何も話していないのに突然お爺さんに怒鳴られ、口汚い言葉を浴びせられました。お爺さんに言い返そうとした時、ふと師父の説法が頭の中に浮かび上がりました。「強辯に遇えば争論す勿れ 内に向けて因を求むは修煉 釈明しようとすればするほど心重し 坦懐にて執着無ければ知見出づ」[3]。自分の過ちに気づき、すぐに心理状態を整え、歓喜心、顕示心理、闘争心を取り除こうと発正念をし、それから、お爺さんと話せば、一つも問題なく真相を伝えることができたのです。

 人と向き合って真相を伝えることでは、言葉遣いと身だしなみが重要だと私を思います。私たちは常人社会の中で修煉しているため、服装に決まりはなく、人に受け入れられやすいでしょう。しかしながら、清潔できちんとした身だしなみが重要です。奇抜で露出度の高い服を着てはいけないし、あまりにもボロボロの格好をするのもいけません。礼儀正しい言葉遣い、清潔な身だしなみ、自信を持った目つき、そして、別空間にいる神様の助けと師父のご加護、これらは衆生を救うことがより効果を発揮するでしょう。

 縁のある人が三退をした後、私に礼を言う時は、自分ではなく、私の師父に感謝すべきといつも相手に伝えています。私は神様の使者で、師父がおられなければ私も存在しません。私はただ足を動かし、口を開いているだけで、師父はこれまでにない栄誉と威徳を与えて下さいました。

 ある日、道端である中年男性に真相を伝えていました。真相資料を受け取った男性は「君はまさに生きている佛様だ。君が私を済度しているのさ!」と誠実に言いました。これを聞いた私は一瞬驚き、普段の気楽さが全くなく、代わりに重い責任がのしかかってきたような気がしたのです。まだ多くの衆生が私たちを持っているのです。彼らの大法への期待を裏切るわけにはいきません!

 これまで十何年間もの修煉を振り返ってみて、私はかつて業力に埋め尽くされたヒステリックな女から、今日のような名利を放下し、善の心を持って人と接し、褒められても調子に乗ることなく、寛大な心を持てる修煉者になりました。これまでの道のりでは、1歩1歩前へと足を踏み出すことが非常に困難であり、そして、何度も心をえぐられるような過程を通じて、やっと執着心を少しずつ取り除くことができたのは、すべて師父が私を常に見守られているからです。迷った時は師父が導いてくださいました。得意げに調子に乗っている時は、師父が注意してくださいました。難関を乗り越えられず苦しみに襲われている時、私の心が落ち着くまで師父が慈悲にずっと見守って下さいました。師父の説法がいつも頭の中で響き渡り、進むべき方向を導いてくださいました。

 私は法のためにやってきた大法弟子です。これからの日々では、慈悲な師父の済度を無にせずに、できる限り師父にご心配をおかけしないように、さらなる精進を目指して行きたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「辯少なしに」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/12/13/338568.html)
 
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