あれほどの策士・田豊が なぜ悟らなかったのか
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 文/中国の大法弟子 古玉明

 【明慧日本2018年12月30日】『三国』について一考する

 田豊は中国の三国時代(狭義では後漢滅亡の220年から、晋が天下を統一した280年までを指す)の袁紹の下の一番目の策士です。

 曹操は劉備を討伐する時、田豊は袁紹に曹操の本部隊の許都(現在の河南省許昌市)からっぽなので、今ただちに襲撃するようにと提案しましたが、袁紹は自分の末子が疥癬を患っていたために、この提案を受け入れませんでした。田豊は杖で地面をトントンと叩いて、「この絶好な好機を逃してしまってはとても残念だ」と嘆いたと言われます。

 曹操は劉備を打ち負かした時、袁紹は兵を出して曹操を征伐することに決めました。田豊は袁紹に「曹操は今、安定した状態であるから持久戦に持ち込み、隙に乗じて曹操軍を攪乱すれば、2年以内に曹操を攻め落とすことが出来ます。一戦だけで勝とうとしないでください」と忠言しました。袁紹はまたもこの忠言を聞き入れませんでした。田豊は繰り返し強くお諌(いさ)めしたために、袁紹はとうとう怒って、田豊を殺そうとまでしました。これを劉備は知り、力を尽くしてやめるように忠告しました。そこで袁紹はこれを聞き入れ、田豊を殺すことをやめて牢に投げ込みました。

 袁紹軍が出発する前に、田豊はまたも「機会を待つべきです。もし軽率に挙兵すると、必ず災いをもたらします」と諫めました。袁紹は「しつこく言うな。わが軍が曹操を攻め落としたならば、次はお前の番だ。この罪を咎(とが)めるぞ」と言い残して、出発しました。

 官渡の戦いで、袁紹軍は大敗しました。牢の役人は「袁将軍は大敗しましたぞ。今度こそ先生を認め、重用するでしょう」と田豊に伝えました。田豊は「いや、私の死期に尽くすであろう」と答えました。それを聞いた牢獄の役人はその事が理解できませんでした。田豊は「袁将軍は表面では優しく見えるが、これでなかなか猜疑心(さいぎしん)が強く、忠誠を尽くす者のことを考えまい。勝てば機嫌がよくて私を釈放する可能性があるが、負ければ必ずこれを恥と思い、私の生きる道を断つであろう」と断言しました。果たして予想通りになり、袁紹は田豊の首を取るように人をよこして来ました。これを知った田豊は「俺はこの世に生まれてきて主人に仕えたが明君であるとを見極められず、なんと無智で不名誉なことかと言って、牢の中で自分で自分の首をはねて死にました。

 孫盛は「愚かな主人に仕えると、我が身を滅ぼしてしまう」と酷評しました。

 田豊のことは嘆かわしいことです。彼が死ぬ前に話した「主人を見極めずに仕えたこの私が無智で愚かであった。嫌われることを顧みず諫め投獄されて、なんと不名誉なことか」の話は、世間の愚か者まで目覚めさせました。袁紹は一見優しそうに見えますが心の中では嫉妬心が強く、そして忠誠を尽くす者の事を見抜けない器の持ち主であることを知りながら、袁紹に仕えました。袁紹が自分を恨んでいることを知っていながら、袁紹のためを思い強く諫めることはなんと無智で、恥じることではないでしょうか、田豊は目覚めるのが遅すぎました。

 荀彧、郭嘉、劉備などの武将達は皆、袁紹の下で働いたことがありますが、彼らは袁紹が明君でないことを知って、すぐに袁紹のもとを離れることを選択しました。袁紹が管理する翼州の真定常山から出身した趙雲さえも、袁紹が大事業を成し遂げる君主ではないことを見透かし、北の公孫瓚に寝返り、後に劉備に寝返りました。沮授、審配、郭図、逢紀などの武将達は袁紹に忠誠して、最後には悲惨な結果をもたらしてしまいました。

 誰を選択するかは人の人生に対して、非常に大事なことです。正しい選択をすれば、自ずと災いから離れられます。

 共産党が中国で現れた後、田豊のような悲惨なことが中国でも絶えず現れています。原因は多くの人が中国共産党の本質を見透かさないでいるからです。中国共産党はもともと盗賊の出身で、ソビエト連邦の共産党の協力で発展してきました。マルクス・レーニンの闘争の学説と暴力革命に基づいて、天にそむき、地にそむき、人類にもそむくことは、人間性が全くない証であり、物事の筋道もありません。中国共産党の発展の過程はすべてゴロツキの手段、手法です。最近の100年間で、中国共産党は8千万人が正常でない死に方で死亡しました。

 中国共産党に従う者は災いの運命から逃げられません。例えば、中国共産党が井崗山に逃げる時に、王佐と袁文才を殺しました。その後、反革命分子の粛清運動で、延安に着いたら、劉志丹、王実味を殺害しました。そして、中国をコントロールした後、林彪、賀龍、彭徳懐、劉少奇、老舎、趙樹理、呉晗、聞捷などなどを殺害しました。文化大革命が終わった時、文化大革命時期の権利者、北京公安局・局長・劉伝新が「裁きを恐れて自殺」し、北京当局は公安、検察庁、裁判所の典型的な重要人物17人を内部で裁判して、秘かに銃殺しました。793人の軍隊の幹部達も内部で審査して、秘かに雲南省の叢林(そうりん・やぶや林)の中で銃殺し、家族には「公務のために殉職した」と伝えました。

 1999年から、中国公安系統は江沢民一派の政治集団が法輪功を迫害する手先に変わりました。今まで、中国共産党のポータルサイトには、130余り公安局長、副公安局長が解職され、法律によって罰せられたことを掲載しています。この中には、「中国共産党・第一警察」と呼ばれている王立軍、「天津・第一警察」と呼ばれている武長順、「煙台・第一局座」と呼ばれている聶作坤などが、すでに捕えられ、中国共産党の囚人になりました。これは中国共産党がいつも使っている手段「卸磨殺驢(ロバを利用し、うすで豆を挽かせ、完成後はロバを殺す)」そのものです。

 中国共産党の天にまで背く邪悪さは袁紹の比ではありません。今まだ中国共産党に従う者らに、田豊のような事を繰り返させないようにし、正しい選択を選び、一刻も早く中国共産党から脱党して、良い人達を迫害するような事を絶対にやめるようにと、ここで強く忠告しておきます。そうでないと大きな災いが自分の身や家族にまで、降りかかることになります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/24/377359.html)
 
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