自分を修め、課題と教師とのバランスを採る
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2018年1月18日】

 師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は現在台南の研究所に勤務しており、小学3年生の時から、兄と共に同修である母親の影響を受けて一緒に学法煉功をしてきました。幼い頃の私は、短気で、些細な事で怒ったりしていましたが、法を勉強する度に、不愉快な気持ちが消え去り、大法の不思議な力によって、気分が穏やかになり、楽しいと感じるようになったので、今日まで修煉を続けてきました。

 けれども、常人社会の中で、特に長い間、学校教育を受け、勉強していく中で、変異してしまった科学観念をたくさん受け入れ、また、私自身の悟性も悪いため、法に対する理解が限られてしまい、心性の向上も遅かったのです。これから、過去2、3年間、大学院の研究室での課題や、教師と生徒の関係を乗り越えてきた大きな関について、また、私が法を暗記することを通じて、向上していく過程を、交流していきたいと思います。

 幼い頃は、成績や名利について何の概念もなく、いつも真面目に宿題に取り組んでいました。しかし、クラスメイトたちの影響を受けて、だんだんと成績の順位や先生からのコメントを気にするようになったのです。中学、高校、大学では、勉強や課題を非常に重んじ、毎日、長時間かけて、勉強したり、研究に取り組んだりしていたため、学部の中では結構目立ち、同級生より何年も早く研究室に入り、教授の手伝いを始めました。これまでずっと歓喜心や、顕示心、闘争心、嫉妬心、名利を重んじる心に気づかず、研究室に入ってからは、これらの心が一気に拡大しました。そして、今まで以上に、仲間より勝れており、他人に越されることは許せないと思うようになったのです。表面上、教授に期待されて、一生懸命研究テーマに取り組んでいるように見えますが、時間が経つと、研究テーマが普段の授業にまで影響を及ぼし、その上、自分が担当している大法の項目まで影響されてしまったのです。しかし、私自身は旧勢力が按排している道を歩いていることには全く気付かず、根性で非常に忙しい日々に耐えながら大学を卒業し、大学院に上がりました。

 大学院に上がると、教授の要求がますます厳しくなり、私もだんだん研究による圧力に耐えられなくなりました。「三つのこと」と研究室での仕事を両立できない時でも、私は歯を食いしばって耐えてきましたが、そういう時は、予期していた結果よりも酷い状況になってしまうのです。そのため、気分が悪くなり、家に帰りよく大泣きしました。毎日涙を流し、ストレスが溜まっているため、時間が経つと、体がとても痩せてきて、もしかすると、うつ病になったのではないかと自分を疑いました。毎日、学法はしていますが、自分の状態が良かったり悪かったりするので、心性の向上は全く見られませんでした。このような状態が1年余り続き、途中、数カ月の間、留学のため海外に行きました。研究室から離れたお陰で、気分転換ができて状態が少し良くなったものの、国に戻ると以前の状態や心境もすぐ元に戻ってしまいました。そろそろ自らの根本的な執着心と向き合わなければなりませんでした。

 その時、ちょうど南区の全体学法に参加し、『精進要旨三』の「最後になればなるほど、精進すべき」を暗唱しました。それは私が初めて暗唱した師父の説法でした。暗唱していく内に、自らの根深い観念に気づき、驚愕しました。まさに師父が説かれたように、「苦しみによって人間は意識的または無意識のうちに苦難に対抗してしまい、その目的は幸せな暮らしを手に入れるためです。したがって、幸せを求める中で、人間はいかに傷つくことなく、いかに良い生活を送り、いかに社会で出世し、功なり名を遂げ、いかにより多くのものを手にし、いかに強者になれるかなどのために経験を積んできました。これらの経験を持つと同時に、人生の観念は形成され、観念はまた経験が実践されていく中で強化されてしまいます」[1] の通りなのです。

 この段落を暗唱し終えると、自らの常人の観念があまりにも強いため、師父が伝授されたこの宇宙の大法を理解することにも影響を及ぼしたことに気づきました。そして、毎日『轉法輪』を1ページ分暗記することを決意しました。頭の中にあるのは法であるべきで、科学ではありません。師父が按排された道を歩むべきであり、旧勢力に支配されてはいけないのです。

 法を暗記し始めてから大きな変化が現れ、毎日、何かに遭うとすぐ師父の説法を思い出すことができ、次第に、法に照らして自分の言動を正すことができるようになりました。研究室で起きたことも、内に向けて自分を探せるようになり、嫉妬心や、闘争心、歓喜心、顕示心、根深い名利を求める心などを見つけて、これらの執着心を放下してからは、周囲の人々も少しずつ変わり始めました。研究室で起きたトラブルは、自分の人心が原因であり、内に向けて自分を探してこそ、問題を解決することができるのです。

 例えば、以前、研究室の会議では、私は誰よりもよく発言し、教授も私の意見に賛成してくれました。ある日、教授に研究の途中経過を報告する時、他のメンバーは引き下がり気味なのに、私はいつも通りに真っ先に発表しようとしました。けれど、教授に他の人に先に話させるようにと発表を止められました。その瞬間、冷水を掛けられたかのように、一気にやる気を失ったのです。しかし、すぐに自らの顕示心に気づきました。また、ミーティングやメンバーと研究について討論する時、よく自分の意見を重視し、自らの考えを皆に認めさせ、他人の意見が間違っていることを証明したがり、言葉遣いに全く気を配らないため、他人を傷つけやすく、中には私のことを頑固で話しにくいと思っている人もいました。後に、明慧ネットで、別の空間では闘争心は争いたがる化け物であると書かれた文章を読んで、漸く自分の問題に気づいたのです。自らの意見を発表したがり、何事においてもその理由や根拠をはっきりしなければならないような話し方は、まさに闘争心の表れなのです。それ以来、自らの意見に執着しなくなり、心を静めて他人の考えに耳を傾けるようになりました。

 以前の私は、研究室での仕事を最優先にしていました。研究のことになると、そちらをメインにして、他の活動をキャンセルしたり、スケジュールを組んだりしていました。こうすることで自分が真面目な人間であることを示すことができると思い込んでいたのです。しかし、時間が経つと、まるで教授に支配されているようで、師父の按排に従っていないということに気づいたのです。それからは、修煉と大法の活動を優先にし、研究室にいる時間を減らしました。しかし、こうすることで、研究室での自分の立場が下がり、前のように重要視されなくなり、それどころか、自分の仕事が後輩に任され、私は却ってお手伝いをさせられてしまったのです。教授のこのような仕事の配分の理由は分かっており、このほうが自分の修煉にも良いと頭では理解していても、やはり時々、嫉妬心や顕示心が現れてしまいます。学法を通じて、これらの嫉妬心と顕示心の背後には、長い間形成された名利を求める心と闘争心が存在していることに気づいたので、自分が一体何を最優先にすべきかはっきりと認識しました。後輩たちのように研究室に残って仕事を続けるわけにはいかないかもしれませんが、私には、私の歩むべき道があるのです。

 こうして、研究室で何か不愉快なことに遭うと、すぐに内に向けて自分を探し、執着心を放下するよう日々努力していくことで、次第に、教授とのトラブルも解決され、また、不思議なことに、私に重要な仕事を任せるのではなく、他のメンバーを重用視するようになったのです。こうして、私の自由時間が増え、正常に学法や煉功することができるようになりました。師父が、私のやるべきことを解決して下さり、そして、教授が私にやってほしいことも他の人に回してくれたです。このように、私は論文を書く時間と「三つのこと」を行う時間をうまく配分することができました。

 法を暗記していく内に多くの観念が根本的に変わりました。苦を嘗めることを恐れなくなり、トラブルに遭っても、人と接する時も法理を用いて自分の言動を正し、常人のように問題の中にのめり込むこともなくなり、以前のように科学や、論理的な思想で人と言い争うこともなくなりました。ここまで至るには、名利を重んじる心について大きな関を乗り越えてきたのです。幼い頃から学校教育を受けて、次第に名利を求める観念が形成され、勉強が良く出来、立派な仕事に就くことが当たり前であると認識し、そのためには、研究室で成果を出さなければならないと思い込み、その背後に隠れている名利を追求する心に全く気づきませんでした。少し前、私がリードして書いた論文が発表されましたが、作者の所には自分の名前がありませんでした。このことで、教授への怨みが生じ、後に、同修と交流や学法をしながら、名誉を失った事実を何とか受け入れられるようになりました。

 しかし、それ以降、教授は私の研究成果を手に入れようとしているだけで、何も新しい事を教えてくれませんでした。自分の未発表の論文を他のメンバーと共有するよう教授に言われた時は、とても悲しくなりました。ある日、学法を終えて、なぜいつまでもこのことを気にしているのかと考えたところ、ふと、師父を信じ、法を信じることを思い出したのです。私は師父が按排してくださった道を歩むべきで、このことに出会ったのも、きっと修めなければならないところがあるのだと悟りました。他人に傷つけられても、損得を気にせずにまた相手のために何かを差し出すという慈悲を修めなければなりません。怨む心を放下してからは、穏やかな気持ちで教授に自分の情況を説明することができ、教授も理解してくれ、私の研究資料を他のメンバーに差し出すようなことを言わなくなったのです。

 修煉状態を反省してからは、以前のように勉強や研究に時間を費やさなくなり、「三つのこと」に時間をかけるようになりました。もちろん、論文や研究には何の影響もなく、むしろ、前よりも効率が良くなり、新しいアイデアも次から次へと湧き出てきたのです。また、昔のように教授から多くの事を教えてほしい、自分のことを認めてもらいたいとも思わなくなり、逆に、自らの研究を法理と照らし合わせるようにしているので、思想回路も明白になり、自分の観点も教授たちに認められ、予想よりも早く論文が完成しました。

 この交流文章を書く途中でも、恐怖心や他の人ほどしっかり修煉していないという劣等感などの執着心を見つけました。先日、あまりにも優秀だから、普段の仕事が忙しくて、大法の項目基準が上がらないのかと項目の責任者に言われた時は、まだまだ精進しなければならず、常人の仕事をしっかり行なうだけでなく、心性も向上させ、心の容量も増やさなければ、合格した大法弟子とは言えないということを悟りました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/28/377759.html)
 
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