徐々に観念を放下していき 着実に修煉する
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文/東北の大法弟子

 【明慧日本2019年2月18日】私は1996年に大法を修煉し始めた者です。小さいときから私は原理原則を重んじ、根強い観念の影響で何をするにしてもこれらのいわゆる原則に沿いがちで、自分の修煉の向上に障碍をもたらしてしまいました。同修の正しくない振る舞いを目にする度に、「師父は本当に慈悲である。門はすべて開いている。このような人も済度されるのだ。私なら、絶対容赦できない」と、私はこう考えていました。

 近頃、同修と協力し合う中、人心の摩擦による衝突を経験する中で、私は自分の問題に気づき、自我を放下し観念を改めることを学びました。もちろん、まだまだしっかりできたとは言えませんが、以下において自分の体験を述べ、これを機に自分の考えも整理し、今後の限られた時間の中で着実に修煉を成し遂げたいと思います。

 人間の是と非へのこだわりを放下する

 2015年の下半期、私は楽な仕事に転職しました。協調人が私の学習能力が良いと思い、携帯電話を使って衆生を救うプロジェクトへの参加を勧め、私は受け入れました。しかし、プロジェクトに参与していた同修のAさんは至る所で私を排斥し、私の加入を阻もうとしました。実は、このA同修は真相手紙を担当していますが、私と競い合うためなのか、書くべき手紙を書かさず、すべての精力を携帯電話のプロジェクトに投じ始めました。交流の際も、彼女はいかに自分が多くの犠牲を払い、良くやっているかを常にアピールしていました。

 トラブルを前にして、私は平然としていられず消極的でした。協調人は事態が気に入らないため、あまり私を相手にしませんでした。一方、携帯電話のプロジェクトを担当する同修は、私の積極的な参加を期待していましたが動こうとしない私を見て、多くの同修の前で私に怒りをぶつけました。サンドイッチになった私は本当に辛かったのです。あれこれと考えた末、私は協調人に真相手紙のプロジェクトを引き受けたいと言いました。しかし、協調人は同意せず、どうしても私に携帯電話のプロジェクトに参加させ、真相手紙をAさんに任せたいと言いました。協調人が私たちの特技によって、合理的に仕事を割り当てていると私にも分かっていました。

 その後、協調人は自分の意見をAさんにも伝え交流を試みましたが、Aさんは協調人の提案を受け入れず、危うく喧嘩するところでした。その後、数回の同修を救出する協力関係の過程で、Aさんは真相手紙を書くことを渋々と受け入れるか、あるいはきっぱりと断ることもありました。そこで私はAさんに対して不満を抱き、彼女が目の前にいなくても、いつも彼女の悪い部分を考えていて、彼女の人柄と処世がしっかりしていないと思いました。その間、子供はいつも私の表情がよくないと言っていました。しかし私は悔しい思いがいっぱいで、ずっと協調人に怨言を言い続けて、協調人も為す術がありませんでした。

 私はさらに別の同修に自分の苦悩を言い出すと、その同修はこう言いました。「あなたは話す過程で絶えず他人の間違いを口にし、自分がいかに良くて正しいことばかりを言い、これでは内に向けて探していないと思います。どうしてこの事に出逢い、自分のどこが刺激されていて、どんな心境でいるべきかを考えたことがありますか?」

 同修の話に私は目覚めました。師父は説法の中でこのようにおっしゃっています。「苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです。これは正しい法理です」[1] 実は、これらの複雑な人心の表れは、まさに自分を高める絶好の機会です。何を担当するかは大事ではなく、内に向けて探すことができるかどうかが肝心なのです。探してみると、自分には実に多くの人心があることに気づきました。同修から排斥を受ける時の私には強い怨む心や嫉妬心、闘争心が現れ、一見、我慢強く耐えているようですが、実際、変異した観念の背後に臆病や面子を重んじる心が隠されていました。自分のこれらの良くない人心に気づいた後、それが反映して来る度に私は抑えたり、否定したりして、発正念して自分をきちんと整理し、落ち着きを保つことができました。

 その後の同修を救出する過程で、迫害を受けた同修と親しいAさんは真相手紙を書こうとしました。しかし、彼女が真相手紙を書くことを拒んできたので、今回、協調人も彼女に書くことを勧めませんでした。そこで彼女はご機嫌斜めになってしまいました。迫害を受けた同修が住む団地で、その同修の迫害情況に関する報道資料や他の真相資料を配ろうとする前日、Aさんはグループ交流の中で、何かを理由にして私に大声で質問し始め、しかも話しているうちに本題から逸(そ)れました。私は訳が分からなくなって、「一体何を言いたいのか?」と思いました。しかし、私はすぐ落ち着きを取り戻して、「また試練だ。絶対に心を動じない」と思いました。その後、Aさんは自分の問題に気づき、「私はどうしていつも負けまいとする態度が出てしまうのか? どうすれば良いのか?」と私に悩みを打ち明けたこともあります。Aさんは謝る言葉を素直に私に言えなかったのです。しかし、彼女が内に向けて探し始め、向上し始めていると私には分かっていました。

 他人に対するマイナスな考えを取り除く

 もちろん、真に修煉している者の境地に達するには、心の容量を拡大するなどの上記のような努力ではまだまだ足りないと思います。頑固な人間の理が私の中に形成されていて、私はまだ人心の鍛錬を受けています。今年、同修のBさんを救援する過程で、私は再度衝撃を受け、一層自分の問題を正視しなければならないと感じました。

 Bさんが迫害を受けた直後、私たちは家族の同意を得て、地方の弁護士に依頼しました。しかし、警官はずっと弁護士に面会の許可を出さず、私たちは同修の迫害情況を知ることができず、弁護士も気を落としました。弁護士は地方にいて、引き受けている案件も多いため、私たちはなかなか弁護士と情報交換をすることができません。特に、同修の案件が省庁からの命令によるものだと知った後、弁護士は圧力を感じ、私たちと力を合わせて案件を押して行く意欲を失いました。私は弁護士の態度に不満を感じ、弁護士を代えようとまで考えました。しかし、もっと多額の費用が発生してしまうので、同修たちはみな躊躇していました。

 この時、弁護士が消極的になっただけでなく、B同修の家族と私たちの間にも隔たりが生じました。B同修の妻は地方にいて、直接救援に参加できず、B同修のことを自分の身内のように気にかけ、頑張っている私たちの姿を見て、最初は感謝していました。彼女は1999年以前に修煉したことがあって、中国共産党による迫害が始まってから修煉をやめました。そして以前、B同修が迫害に遭う度、彼女はお金やコネを使ったり、修煉しない保証書を夫の代わりに書いたりして、B同修を釈放してもらいました。つい2年前、彼女は再び修煉し始めました。

 今回の迫害が発生した後、彼女は担当警官とウィーチャットで連絡し、真相を伝えた結果、相手がある程度真相を受け入れたと言いました。しかし、この警官は弁護士とB同修の両親に会うことを堅く拒み、電話の中での態度も非常悪かったです。私たちはこの警官による数回の迫害行為を資料として整理し、明慧ネットで暴露しました。担当警官はこれに対して大変怒って、B同修の妻に私たちが嘘をついていると言いました。実際、私たちはすべてを調査し、事実を述べただけでした。
 
 一方、B同修の妻は私たちが優しさに欠けていて、なぜ自分のように特別な慈悲を持って警官に接することができないのかと詰問してきました。私は心の中で「これは善どころか、敵と身内も区別できなくなったのではないか!」と思いました。彼女の最近の修煉における振舞いを考えると、彼女が法理をきちんと理解できていないと思い、心の中で彼女に対する先入観を形成しました。

 警官は欲しい情報などを得ることができず、B同修を留置場から別の場所に移送しました。事情を知った私たちは焦って、B同修の両親と一緒に関連部門に警官の不当行為を告訴しました。調査を受けたこの警官はB同修の妻に、「もう告訴しないでください。我々はBさんに良くしてあげています。上層部から許可を得られたら、じき釈放する予定です」と伝えました。私たちは警官の話の真偽を判別できず、しかもその同修が単独で拘禁され、洗脳も受けているとの情報を知り、告訴をやめるべきではないと判断しました。しかし、B同修の妻は告訴を停止すべきだと言い張って私たちと悶着を起こし、終いには連絡さえくれなくなりました。私の人心が再び現れて、「連絡しないならしなくてよい。邪党に絡んだら悪魔に騙されるだけよ。その結末を見てみよう!」と考えました。

 もちろん、私の分かっている一面はこの考えが旧勢力に符合していると知っており、全体において確かに明らかな隔たりが生じていて、邪悪に隙に乗じられるのが時間の問題だと分かっていました。1日1日が過ぎてゆき、同修がまだ中で迫害を受けているので、どうすれば早くこの隔たりを埋めることができるのかと悩み、そして「彼女(B同修の妻)はどうして変わらないのか?」と日々考えていました。中々悟らない私を見て、ある日、師父はある言葉をはっきりと私の脳裏に「彼女が変わらないのは、あなたが達するべき次元に達しておらず、あなたが変わっていないからだ」と、打ち込まれました。私は心の中で繰り返しこの言葉を吟味し、自分の何を変えるべきなのかと自問しました。

 慈悲なる師父は再度按排して下さいました。ある地方の同修は偶然の機会に、自らの同修を救援する感想を私に話してくれました。「救援の過程で、私は次第に弁護士や同修の家族、そして同修に対する要求も下げて、真に慈悲と正念を持って衆生に接するように努めました」。この話に私は心を打たれました。慈悲と正念ですか? 私はそのように人に接していない気がします。私自身と言えば、常にこれが気に入らなくてあれがだめだと感じ、他人に対するマイナス思考が重く、他人に問題があって、何でも自分の理想に合わないと思っていました。実際のところ、他人に対するマイナス思考を一掃して自我を放下し、他人に要求を科すことをやめるのが私の修めるべき部分でした。

 弁護士と引き続き協力し合う中で、私は弁護士が正念が足りないと考えないようにしました。弁護士は1人の生命として、邪党の害毒を受けて神の存在を信じなくなり、大法に対する理解も浅いのですが、それでこそ私たちはより多くの真相を彼に聞かせ、真に分からせて初めて正念を生じてもらうことができます。その後、弁護士が検察庁に提出した資料の中に、旧勢力の按排を認めるような適切でない文言があって、もちろん弁護士自身はそれに対してはっきりした認識がありませんでした。ある同修は修煉の角度から彼にはっきりと道理を言い聞かせましたが、弁護士は自分の能力が疑われていると思い、自尊心が大きく損なわれて強固な態度に転じ、一字たりとも直さないと言いました。2人は長々と話して対峙していました。
 
 同修の振る舞いから、私は自分のかつての不足に気づきました。私は弁護士の空間場の良くない要素を取り除きながら正念で彼を加持し、別の角度から彼との交流を試みました。少ししか話せていないうち、弁護士はすぐにこう言いました。「こちらの姉さんの言う通りなら、私は削除に同意します」。実は、法理から言えば、同修の話はもっと理に叶っています。ただ、常人である弁護士は受け入れ能力がまだ限られているので、私はできるだけ弁護士が理解できる角度からこの事を討論してみました。特に、当時の自分の心理状態は純粋で穏やかだった上、正念と善の念を持って弁護士に当たっていたので、彼は心の抵抗がなくなりました。

 同修の妻とも連絡したかったのですが、「しかし、彼女の気性が激し過ぎる」という一念で躊躇していました。この一念が出た途端に私はすぐこう考えました。「同修のことをそのように考えてはいけない。この観念はいらない」。不思議なことに、当日の夜、ある同修が私に、B同修の妻が私と連絡を取りたいと言ってくれました。私は本当に意外な喜びを感じ、「本当に師父に感謝します。弟子の心は師父が何でも知っておられます!」と思いました。その後、B同修の妻は私と会話を交わす際、終始礼儀正しかったのです。私たちは互いに心を打ち明けてスムーズに意見を交換し、彼女も引き続き告訴することに賛成しました。数日後、B同修は帰って来ました。

 長年修煉してきて、ずっと事を成すことが修煉だと思っていましたが、最近になってやっと修煉らしい修煉ができている気がします。修煉の道のりにおいて、外に向けて求めれば前進が困難になり、内に向けて探して初めてスムーズに前進することができます。何かを行なう際、具体的な事例に潜り込んでしまえば、問題に遇ったら困惑してしまいますが、一旦そこから飛び出て、自分のどの心を修めるべきかを見てみれば、よりはっきりと見えてきます。実はこの過程が修煉なのです。そして、この過程には師父による苦心の按排と教化が欠かさずあり、同修たちからの指摘も必要です!

 師父に感謝いたします!
 同修の皆さんに感謝します! 合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/10/17/345259.html)
 
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