【明慧日本2019年3月30日】天津市の法輪功学習者・王健さんは、精神的にも肉体的にも残酷な迫害を受けた後、精神状態が正常に回復しなかった。2019年に入ってからも、警官らによる嫌がらせが絶えず続く中で、病状はますます悪くなり、2019年1月26日午前、冤罪が晴れないまま亡くなった。享年40歳だった。
1997年のある日、当時18歳の王さんは宿題をしていたところ、母親が聴いている李洪志先生の説法録音を耳にして、「お母さん、僕も法輪功を学びたい!」と何回も言った。そして、成績が優秀で礼儀正しい王さんは、現役で河北工業大学の英語学科に合格した。
1999年7.20、すべての国家機関が動き出し、法輪功に対して狂気じみた弾圧が始まった。王さんは「真・善・忍」に従って良い人になることのどこが間違っているのかを、いくら考えても納得できなかったため、何度も北京に行って法輪功の無実を訴えた。
2000年10月、21歳の王さんは現地の警官らに連行され、労働教養を1年間強いられ、双口労働教養所に拘禁された。教養所で、王さんは転向しないため様々な拷問で苦しめられ、野菜も飲水も提供してくれず、雑巾を洗った水を強制的に飲まされた。また、低いベッドの下の隙間に詰め込まれた。受刑者らは暴行を加えながら「手のつけようのない悪者になろうと構わんが、法輪功を学ぶことだけは駄目だ」と大声で叫んだ。
精神的にも肉体的にも残酷に苦しめられ、過度なプレッシャーを受けたため、王さんにうつ病の症状が現れた。家族は金銭を使って、2001年5月に何とか王さんを家に連れ帰ったが、王さんはすでに心神喪失状態になっていた。
このような状況下にもかかわらず、現地の警官は絶えず家に嫌がらせをし続け、2016年の間に7回も嫌がらせがあった。王さんは恐怖の中で病状がひどくなり、伝統的行事である新年のお正月まで生き延びることができず、無念の中で死亡した。
双口労働教養所で致死した実例
◎天津市北辰区の法輪功学習者・魯徳旺さん(40代)は、1999年に双口労働教養所に拘禁された。2000年5月1日、警官らは魯さんを廊下へ引っ張りだし、電気棒で長時間にわたり電気ショックを加えた。魯さんの首のあたりはすべて潰爛(かいらん)し、皮膚が裂けて悲惨で見ていられない状態になり、数カ月経っても治らなかった。迫害され虫の息となった魯さんは、やっと家族に迎えられたが、数日後に冤罪を晴らせないまま、亡くなった。
◎天津市河東区の法輪功学習者で、20代の優秀なパイロットの劉平さんは、2002年の初め頃、双口労働教養所で苦しめられ死亡した。
1999年7.20以後、中国共産党が法輪功を弾圧してから、劉さんは関連部門に法輪功の真相を伝えたために、勤務先を除名された。2000年に双口労働教養所に連行された。そこで法輪功への信仰を放棄しないために、カビが生えているプラスチックのごみ置き場で、毎日22時間のごみの分別作業を10日間以上続けさせられた。その後、劉さんは結核になり、しかも全身にひどい疥癬(かいせん・ヒゼンダニによって起こる激しい痒みをともなう皮膚病)になった。家族が劉さんの解放を強く求めたが、天津市610弁公室の責任者は「劉が法輪功への信仰を放棄しない限り、労働教養所の中で死んでもらう」と言い放った。
労働教養所は結核の広がりを防ぐために、劉さんを個室に隔離した。実情を知る人によると、2002年のある朝、劉さんが横になって、もう起きることができなかったことに警官が気づいた。全身が腐敗し、血や肉、膿などが衣服にくっ付いていたという。
◎天津市北辰区の法輪功学習者・陳宝亮さん(66)は、2002年8月15日、警官の指示を受けた受刑者に暴行を加えられた。
2002年8月15日の朝、受刑者の呉国亮と李文洪が法輪功学習者・梁峰さんを殴った時、陳さんが制止したため、2人に殴られた。呉国亮と李文洪は地面に倒れている陳さんに対し、殴ったり蹴ったりした後、サッカー庫の懲罰房に運び込み、互いに「彼を投げつけて殺せ」と言いながら、陳さんを持ち上げてこっぴどく地面に投げつけた。さらに飛び上がり全身で陳さんの体を踏みつけ、口からは絶えず「殺してやる! 殺してやる!」と罵った。約40分後、陳さんはフフラらしながらサッカー庫の懲罰房から出て来て、20歩も歩かないうちに気を失い、地面に倒れてしまった。受刑者らは「誰も彼を助けるな、自分で戻らせ」と叫んだ。数分後、陳さんは永遠に目を閉じた。
◎天津市南開区の法輪功学習者・唐堅さんは、2000年に労働教養を1年間強いられ、2002年7月に帰宅したが、9月にまた双口労働教養所に連行された。
2004年のある日、教養所の警官は「俺がやった後、お前らがやれ、殺してもよい、責任は無い、死んだら自殺と見なす」と指示したという。そこで受刑者らは便所の部屋で吊るし縄を用意して、唐さんを吊し上げてから、大きい水がめの中に突っ込んだ。
2004年5月、唐さんは高熱が下がらなくなり、意識不明になった。そして、2004年7月9日に冤罪が晴れないまま、亡くなった。享年39歳だった。