人間か神か、一念の違いで分かれる
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文/中国の大法弟子

 明慧日本2019年4月9日】修煉者が発した一念はとても重要で、それこそ人間なのか、神なのかの境界線です。これは簡単に見えますが、実に大事なことです。明慧ネットにある文章には、ある年配の同修は妻が亡くなった時、子供達が両親の合葬墓地を購入しましたが、この同修は反対せず、黙認しました。しばらくすると、この同修に酷い病業の状態が現れました。幸い彼はその後、これは大法弟子にとって間違った一念だったと悟って発正念をして、完全に否定したので無事でした。

 日常生活の中で見慣れたことも、人間の観念がたくさん潜んでおり、修煉者にとって無視することはできません。以前から私は花を栽培する趣味があり、部屋の中にたくさん花を置きました。しかしいつも葉が枯れたり、花が萎れたりしてしまいます。私は「君たちも縁によって来たので、『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』を覚えて立派に育つなら、それも大法を実証することだ」と花に言いました。しかし、花には一向に変化が見られず、その中の一本はすっかり弱り、続けて育つかどうかわからない状態でした。ある日花に水をやる時、ふと「私の考えは『私』のものではないか? 私は花を茂らせ、自分の思い通りになって欲しいが、生命は皆自分の意志を持っており、私はそれを左右しようとしているのではないか? もし花が悪縁によって来たものなら、対立するものでしかない」と思った瞬間、心性が高まったように感じ、全身が軽くなりました。以降花に水をやる時は、ただ水をやるだけでした。もちろん、考えて見ると、できるだけ趣味で草花を栽培しない方がいいと思います。生命のあるものに、気を取られ、傷つけたり、殺生をする可能性もあるからです。

 先日友人が蜂蜜を何本も贈ってくれました。妻は「これは栄養食品で、毎日少しずつ飲めば肌がきれいになる」と私に言いましたので、毎日1匙飲むようにしました。ところが、しばらく経つと体と足の皮膚にできものが出て、赤くて痒くなりました。私はすぐ分かりました。「そうだ、三界にある物が良いと思う時は、三界の理に制御されるのだ。人間は美容を重んじるが、神が美容に気をつかう必要があるのか?」。ある70歳過ぎた医者の同修は、肌が白に赤味がさしてツヤツヤでした。「お肌の手入れをしていますか?」と聞くと、「そんな時間はないわ。やるべきことにも時間が足りないのよ」と彼女は笑いながら答えてくれました。この同修は毎日朝3時50分に起きて煉功し、1日に『轉法輪』を2講読み、それから家を出て人々に法輪功真相を伝え、真剣に修煉しています。修煉者にとってどの次元の基準に達していても、その次元における大法の素晴らしさが現れ、何でもあり、美容の手入れなど必要でしょうか? つまり良い状態は修煉によるものに違いありません。

 しかし、まだ同修の中には数百元から数千元を美容や髪、マニキュアに費やしている人や、数千元の天然植物性髪染めや高級化粧品を買う人もいるそうですが、顔の皺や生えてくる白髪を止めることはできません。生老病死は三界内の規律であり、人間を制御します。修煉者が偏った念を発すると、旧勢力は口実を掴み生老病死の物質を押し付けてくるのです。

 もう1人の同修は、街の看板に書かれた「悪の勢力と暴力団を追放しよう」を見かける度に、「これは法輪功に対するものではないか?」と恐怖を覚え、警察を見ることすら緊張してしまいました。このことを他の同修に言うと、その同修が笑い出して、「看板に書かれたことはあなたに何の関係がありますか? 何を緊張しますか?」と言いました。「それはそうですね」と同修は一瞬にして気が軽くなりました。

 私は自宅マンションの屋外の階段先にセンサーライトをつけました。それによって上階に住む人は夜に階段を登る時便利になりました。しかし電気代がかかると言って妻に反対されました。私は「音声でコントロールするから、そんなに電気代はかからない」と説明しましたが、妻は納得せず、私が電気をつけると、妻は消す、またつけると、また消されました。私は感情を抑えて冷静に考えました。「この私のやり方はどうなのか? 神ならこのようにするだろうか? どんなにいいことだと自分が思っても、無理矢理にすれば悪いことになってしまう。崇高なことでも相手のことを考えず、強行しようとするのは、人間の考え方で、善の心は無為で表れるのだ」と思いました。その後、妻が消そうがつけようが、私は妻を変えようとしませんでした。不思議なことに、私が執着しなくなると、妻が時に電気をつけるようになりました。修煉者にとって皆自分の境界があり、人が何をしようが、自分自身をきちんと修めることこそ大事なのです。

 ある時、私は何人かの同修達と一緒にレストランで食事をしました。これが好き、あれが好きと言いながら、皆は好みの料理を注文しましたが、1人だけが何も注文しませんでした。「何が好きですか?」と尋ねると、この同修は微笑みながら、「皆さんが注文した料理で、何でも結構です」と淡々と答えました。同修の言葉で私は自分との差を見つけました。なるほど、「私」(し)とは何か?「口の執着」とは何か? この小さな場面を通して各種の人心が現れました。神にはこのような心や、このような事をするはずがありません。人間と比べて、神には「私」がなく、和やかで自在な状態で、人間のようにゴタゴタと騒いだり、周りに配慮しないような状態はないと思います。昔、師父と一緒にいる時のことを追憶する文章で、ある同修はこのように書きました。「師父は弟子たちのために料理を注文してくださり、弟子たちがおいしそうに食べている様子を、嬉しそうに見守ってくださいました」。人間か、神か、一念によって違いますが、そこまで修めていくのは遥かに遠く難しいことですが、いざ本気になって一歩進むことができれば、瞬間に届くのではないでしょうか?

 わずかな経験ですが、同修の皆さんに書き出し、大法に符合していないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/3/30/384519.html)
 
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