文╱中国の大法弟子
【明慧日本2019年4月14日】学法チームの2人の年配の同修はいつも通りに時間を作って、他の地区の病業の関にいる同修のGさんの見舞いに行きました。1カ月前、この年配の同修の1人は自宅に帰った時に連行され、不当に1カ月ほど拘禁されました。今回の迫害が起きてから地元の同修達は、皆自らを探すようにしました。師父は「いかなることに遭っても、最初の念はまず自分を考え、これはすなわち『内に向けて探す』ということです」[1] と説かれているからです。
長年の修煉過程で「内に向けて探す」という言葉は、すでに心に刻まれています。しかし、執着心に妨害されて探しているうちに、やはり他の人のことを探してしまいがちです。不思議なのは、他の人のことを探してしまった場合、なぜか、私はとても辛く感じイライラしてしまいます。そこで、自分は「また間違ってしまった」と気が付くのです。人の事が気に入らないということは、自分の修煉が足らない、法を学ぶことが足りていないからだと私は考えました。そして私は同修のことを自分と入れ替えて考えるようにし、気に入らないことがあれば、直ちに自らを探すようにしました。そうすると、自分はやはり「常に心性を修め」[2] をやり遂げていないことが分かります。そして、いつも気付かせてくださる師父に心より感謝しました。
学法チームの同修達はGさんのことを気にかけており、「また、Gさんの見舞いに行こう」と言い出しました。その時「私も行く」と決めました。なぜなら「この件はきっと私に関係があるはずで、さもなければ、いつもGさんのことを耳にするはずがない」と思ったからです。そして私たち4人は、Gさんの家に行きました。そこには同修のAさんとBさんが来ていました。
Gさんに会って彼女の近況を知りました。Gさんは「座禅をする時、体はなぜかいつも傾いてしまいます。視力も低下して法も読めなくなってしまい、そのため、Aさんに読んでもらっています」と言いました。Aさんは「私が法を読んでいる時は彼女はまっすぐに座っていて、体は傾いたりしていませんよ」と言いました。そして私はGさんに「座禅をする時に体をまっすぐにすると、どうなるのですか」と聞くと、彼女は「大変辛いのです」と答えました。「どのように辛いのですか」と聞くと、彼女は腰を指して、「ここを何かに刺されているように感じて、とても辛いのです」と言いました。Gさんは同修達に発正念をしに来て欲しい、そして、病業を滅してくれるように助けて欲しいと期待しているとの事でした。以前、Gさんの学法チームには4人のメンバーがいましたが、Gさんともう1人の年配の同修に病業の仮相が顕れたため、グループは解散してしまいました。Bさんもチームの一員でしたが、この数カ月間はGさんと会っておらず、今回初めてGさんの家に来て、たまたま私たちと出会いました。Bさんはすこし興奮気味に、Aさんの問題点をあれこれと指摘しました。Bさんの振る舞いを見ていたら、自分の昔の姿が見えました。と言うのも、私もいつも同じような振る舞いをしていたからです。
同修が関を乗り越えられないことを心配して、焦ったりすることはよく理解できることですが、しかし、焦るだけでは決していい効果につながりません。なぜならば、それも人心だからです。言い出した言葉はいくら理に適っていたとしても、人心が混じっているとその意味合いが変わります。一方、言われた同修も人心が働いてしまい、とても受け入れることが出来ず、そのため隔たりが出来てしまうのです。ですから、何かに遭った時、師父が仰っているように、他人の問題点を指摘するよりも、まず自らを正し、優しい気持ちで同修に対応することは、修煉者の取るべき姿ではないでしょうか!!
Aさんが「Gさんを助けるため、人を救う時間を多く使い無駄にしてしまった」と文句を言った時、私はそれを止めました。「同修の問題に遭遇した時は、私の場合、まず自分を探すようにしています。皆さんの話を聞いていると、なぜか全部私のことを指摘されているように聞こえて仕方ありません」と言うと、同修の皆が笑いました。
本当にそうでした。確かに皆が私のことを指摘しているように聞こえて、仕方ありませんでした。私は心の中で「同修達は皆凄いですね。私のことを知らないのに私の執着心を全部言い当てている」と本当にそう思いました。
家に帰って座禅をした時、自然とソファーに寄りかからなくなりました。なぜなら、Gさんの家で「同修は皆自らを正している。私も早く追い付いて、自らを正さなければならない」という収穫を得たからです。
個人の体得です。法に則っていないところがあれば、同修達のご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作 : 『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」
[2] 李洪志師父の詩 : 『洪吟』「真に修める」