文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年5月26日】大法弟子として、以前にトラブルに遭ったら、何かの執着心を無くすべきだと分かって内に向けて探しますが、その探し方は表面、または個人修煉の次元に留まっていたため、深い体得を得ることがありませんでした。法を多く学んでいくうち、私は内に向けて探すことは個人の向上だけに留まらず、それが自分と関わりがある天体の衆生の変化や向上にも関係し、自分と縁のある世人にも関係していることが分かりました。言い換えれば、私たちの心性が向上すれば、周囲の常人の心性にも変化が現れるのです。
この点は舅の身に明らかに現れました。ある日、食事を用意し、テーブルに並べてから子供の面倒を見ようとした私は、舅に「先に食べて下さい。食べ終わったら茶碗と鍋を流し台に置けばいいです」と言ったところ、これを聞いた舅は急に怒り出して、トウモロコシのお粥を盛った茶碗を地べたに投げつけました。飛び散ってきたお粥を振るい落とし、私は子供を連れて水汲みに行きました。舅は気性が激しく、茶碗を投げることがよくあります。「しかしなぜこんなことが、私の目の前でよく起こるのだろうか?」と私は内に向けて探し、自分の言い方が悪くて、舅には優しくなかったと思いました。その後、私は心から舅に優しく接するように努力し、私が変わると舅も変わりました。数年来、舅と姑は大法から恩恵を受けて、すごく健康です。
身近な一部の同修は未だ個人修煉の次元から抜け出ておらず、常人の情や利益に悩まされて、内に向けて探すどころか、家族に不平等に扱われていると怨んでいます。一部の事は常人の角度から見れば、確かに不平等です。しかし、同修の皆さん、その「不平等」な扱いは私たちが以前、造った業によるものかもしれません。大法に出会わなければ、師父が業を消して下さっていなければ、私たちは生生世世で造った恩怨を返すことができると思いますか? まだ何が不平等と言うのでしょうか?
それに、この特殊な歴史時期において、トラブルや苦痛をもたらしてくれる私たちの家族も、法のためにこの世に来ています。私たちがなかなか執着心を取り除かないので、彼らも繰り返し悪役を演じなければなりません。彼らはもっと辛いでしょう! 真相をまだ知らない彼らが本当に欲しがっているのは、借りを返してもらうことではなく、大法がほしいのです。大法こそが生命の保障で、大法の中で怨恨(えんこん)が善解されるので、これこそが彼らが私たちと親縁を結んだ意義なのです。私たちは正法時期の大法弟子ですので、圓満成就すれば宇宙の主や王になります。家族たちはもしかすると、私たちの宇宙の衆生かもしれません。私たちが執着心を取り除かず、心性が向上しなければ、彼らが救われることにも影響を与え、彼らもまた逆に私たちの修煉を妨害します。まとめてみれば、修煉環境はやはり私たち自身の心性によります。内に向けて自分を修め、初めて法との捻(ね)じれを取ることができます。
内に向けて探すとはスローガンではなく、随時に法に照らして自分の言動を厳しく要求すべきです。師父は「相は心から生じる」[1] とおっしゃっています。修煉者の周囲の環境は自分が切り開いたもので、その良し悪しは常人の中での私たちの心性そのものの反映です。他人を見ず、自分の不足だけを探しましょう。私たちの心性が真に向上してきたとき、わざわざ何かをしなくても、周囲の人や物事は自然と変わっているはずです!!
一回、車で高速道路を走っている最中に、後ろの大型貨物車に追突されました。息子が運転していて、私と嫁、そして2人の孫が後部座席に座っていました。「ドーン」という大きな音とともに、車の後尾を追突されて、車内にガラスの破片が散乱しました。孫たちは泣き出し、嫁も怖がっていました。私は「大丈夫よ。師父が見守って下さっているので、みんなで『法輪大法は素晴らしい!』と念じようね」と言いました。しばらくしてから、彼らは落ち着きを取り戻し、全員が無事でした。師父は私たち一家を保護して下さいました。
師父のご加持の下、私は正念で対応することができました。慈悲なる師父に感謝致します! 弟子は精進に精進を重ねて、初めて師恩に報い、師父の慈悲なるご済度を無にしないことができると思います。
浅はかな認識に過ぎず、不足の部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」