私が悟った圓満成就とは
文╱中国の大法弟子
【明慧日本2019年7月21日】大法修煉の中で、よく「圓満成就して師父について家に帰る」という言葉を聞きますが、一体本当の圓満成就とは何だろう? 圓満成就の意味は何だろう? どうすれば圓満成就ができるだろう? などについて心を落ち着いて考えたことはありませんでした。
本当に恥ずかしく思いました。長く修煉して、自分はどれだけ執着心を修めたか? どれだけの人心や欲望を堂々と放下したか? と自問しました。人心と観念を固守し、欲望を固守し、肉眼で見えるすべての実在の物を固守していれば、圓満成就ができるでしょうか?
振り返って見ると、世間での損得を修煉の福報の不変の基準と見なし、修煉の中で個人の損得ばかりにこだわり、修めているようで修めていませんでした。このような状態であるにもかかわらず、法を正す事の終りを期待し、終ると同時に自分も圓満成就する、と期待していました。そんなことはあり得るでしょうか? !
「修して執著を一つも漏らすこと無きを得れば」 [1]、「功成って圓満成就し、佛、道、神となる」[2]という師父の詩が突然脳裏に浮かびました。
圓満成就とは、すべての人心、観念を取り除くこと。
圓満成就とは、私(し)の為の考えを取り除くこと。
圓満成就とは、俗世に身を置きながら、心を俗世の外に置くこと。
欲求も、執着心も、私(し)の為も、すべてがなくなった時、初めて圓満成就になるのです。早く放下しなければならない時になりました。師父はずっと私たちを待ってくださり、私たちが圓満成就する日を待ってくださっています。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「迷いの中で修める」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「真性を見る」