明慧法会|舞台芸術の中で法を実証すると師父が知恵をくださった
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年7月30日】師父は『実証する』という経文の中で「佛法は人を済度することができますが、人を済度するために佛法が生じたのではありません。佛法は宇宙、生命、科学の謎を明らかにすることができ、人類がもう一度、正確な科学の道を歩むようにすることができますが、佛法は人類の科学を指導するために造られたものではないのです」、 「そうであるならば、佛法の中で智を開く専門家、学者が将来多くなりますが、彼らは新しい人類の各領域の開拓者となるのです。ところが、佛法はあなたを開拓者にするために、あなたに智慧を与えたのではなく、あなたが修煉者であるから得たのです。つまり、あなたはまず修煉者であって、そして専門家なのです」と説かれています。

 師父のこの法は、舞台芸術を職業とする私という弟子の身の上ではっきりと裏付けられました。18年間の修煉の歳月には、話さなければならないことが山ほどあります。私が成長したそれぞれの段階で、毎年、毎月、毎日、少しずつ向上したので、師父は無限の知恵を与えてくださり、この知恵を大法を実証するために運用させてくださり、真相を伝えるためのより良い環境を造らせたのです。ここではできるかぎり異なる角度から例え、さらに皆さんに全面的に理解していただきたいと思います。

 一、正念の威力と慈悲

 発正念の重要性を認識した後、全世界で正時での大法弟子の発正念以外に、外出した時でも、説法を聞いていないのであれば、行った場所、出会った生命に対して発正念し、師父が法を正す事を破壊するすべてを解体し、大法弟子と衆生を迫害するすべての邪悪を解体しました。どの学校に行った時でも、その学校の環境とその生命に対して正念を発しました。授業を行なうと同時に正念も止めませんでした。どの学校で教育指導するのかに関わらず、他のクラスの学生は遅刻し、授業をさぼる現象が深刻でも、私が教えるクラス、あるいはグループだけはこの現象が少なく、たとえいたとしても、学生はあらかじめ休みを取って、私が休みを許可しなければ、学生たちが休むことはありませんでした。

 最初、私はこの状況をまったく知らず、そんなある日、教頭先生が私に「変だ、全校であなたのクラスの出席状況が最も良く、あなたが教えるどのクラス、どのクラスでも出席状況が良いのです。そこで、私は学生になぜなのかを聞いてみました。すると、学生たちが言うには、学生たちもわからずただ来ないわけにはいかない、ということでした」。修煉していない常人から見れば、特に中国の邪党文化の環境下では、人々の習慣と観念では、その人がすごければ他人ににらみがきくと思っており、それに対して、私を含め、「真・善・忍」を修煉する大法弟子は普段から優しく見えますが、学生たちは威厳があると思っていたようです。同時に、「これらの生命の本性がわかっているのだ」とわかり、発正念で学生たちの空間場にある法に即していない要素を清めたのですから、学生たちは当然来たがるはずで、誰がこんなにも素晴らしい機会を放棄しようとするでしょうか?

 ある時、子供の演技クラスの授業の前に、ある父兄が私に会いに来て「先生、授業で何を教えているのですか?」と聞いてきました。私は授業内容を知りたがっているのだと思って、簡単に授業の内容を紹介して「主にお話を聞かせて、その後、そのお話を演じさせます」と言うと、その父兄は怪訝そうに「それだけですか?」と言いました。そこで、私は「そうです」と伝えました。

 すると、父兄は「先生、先生が授業で何を教えているのか、特に興味があるのですが、というのも、2人の息子は先生の授業を受けた後は特におとなしく、静かに本を読んでいるか、2人とも自分のことをやっています。しかし、先生の授業を受けない時はこうではなく、喧嘩をして、特に私が出かけて、家政婦だけが家にいる時は特にひどいです。しかし、この2回、先生の授業を受けた後は、私は安心して出かけ、家に帰ってから家政婦に聞いても、2人ともとてもおとなしく、喧嘩しなかったというのです。最初は偶然だと思っていましたが、毎回そうなので、先生が何を教えているのか知りたかったのです」と説明しました。

 その時、私は突然すすり泣き、なぜなら、これは師父が教えてくださった発正念であることがわかったからで、これは強大な正念の場が作り出した作用であり、また私の修煉の中では、師父が説かれた「煉功を続けて、われわれの心性の要求に基づいて修煉すれば、だんだんと、あなたのエネルギーも強くなるはずです」]1] のようでした。形成された強いエネルギーが生命に改変をもたらしたのです。師父は私たちに慈悲深く、衆生に慈悲深くしてくださったのです。

 二、子供たちを教える中で、師父の法理がいつも私を指導してくださっている

 学生はいつも私に「先生、先生は心理学を習ったことがあるのですか? それとも神仙なのですか? どうして私たちが心の中で思っていることや、何かが起きた時に、いつもすぐに説明できるのですか?」と尋ねました。私はそれは学生が演技の途中で表した状態であると気づき、実際、それは学生の執着心が自然ににじみ出たもので、特に学生たちの演技の中で人を不愉快にさせる所が反映されたものですが、学生たちの心が無意識に落ち着くか、あるいは、本性の善良な特性が引き出された時、世の中で認められる良い演技に達した状態になるのだ、ということに気が付きました。

 常人の中の教師は、学生の演技が良くないと見た時、いつもこの方法やあの方法で解決しようとしますが、これはただ表面下の功夫に過ぎないので、実質的な問題は解決できませんが、修煉の中で明らかなことは、実際、学生の演技が良くないのは執着心によって作り出されたものだ、ということです。たとえば、学生が今日、セリフを言う声が遠くまで届かず、いつも内にこもってしまうようであれば、その日、学生は気分の悪いことに出会ったのだとわかり、そのため、その学生は自分の心を閉ざしてしまったのです。もし声が高く漂うようであれば、体が興奮し、目は極度に自信を持ち、それならこの日のその学生の名を求める心はきっと満たされ、顕示心も満たされたでしょう。

 もしある学生が単独の演技が順調であるがために、他の学生と全く交流できない時、その学生は生活の中では得てして自分の世界の中で生きている人間であり、めったに他人のことを注意しない、と感じるのです。子どもたちに教える中で、学生の演技中に存在する問題の本質と原因を見た時、それは学生たちの執着心であるので、すぐに私が見たことを優しく学生たちに伝えると、学生たちは驚愕しますが突然悟り、なんと演技の問題は意外にも学生自身の考えから来たものだ、と悟るのです。

 そして、学生たちに「私の師は『相は心から生じる』を私に伝えました」と伝え、師父が説かれた「相は心から生じる」の法理を学生たちに聞かせ伝えると、学生たちの目は純真にキラキラと輝きました。道理がわかってから学生たちが演技すると、その瞬間から正しくなり、非常に純粋に、力強く演技し、包括力が強くなりました。さらに、ふたたび演技中に問題に遭遇すると、学生たちは各自で「これは自分の心のどこかが間違っているのだ」と言えるようになりました。執着心が少なくなるにつれて、考え方が清らかになり、物事を考えるのにもいつも他人を先に考え、自分を後にできる学生の方が芸術的演技の優れたレベルの技能を早く掌握することができました。

 修煉の中で、師父はずっと「内に向けて探す」ことを私たちに伝えられてきました。「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[2] 。子どもたちに教える中で、内に向けて探すことで絶えず私は知恵を与えられました。ある時、ある学生がセリフを全うするのに、何度授業に出ても硬直し、心ここに非ずでした。そこで、多くの方法を用いましたが功を奏さず、最後に忍耐の限界に達し、なんと、中国共産党文化が生み出したあの非常に善くない方法で、わざと学生を刺激し、演技を学ぶのにまったく向いていないと言い、その結果、ちょうど反対の結果になり、その学生の演技はさらに硬直してしまいました。

 実際、その学生はとても善良な学生で、私がその学生のことをどんなにダメだといっても、その学生は私を恨まず、さらに熱心に頑張りましたが、頑張れば頑張るほどひどくなってしまいました。その学生の問題がどこにあるのかがわかったので、その学生に「どうしてできないの?」と伝えました。

 試験前の最後の授業で、舞台の上で授業を受けたその学生を見ながら、その学生が私を恨まなかったことを思い出し、突然つらくなり、師父は私に人を救わせようとなさっているのに、どうして私は善良の心を以ってこの生命に対処できないのでしょうか? どうして中国共産党文化のあのよくない方法で、その学生に対処し、それならば、私は一体何を実証しようとしているのでしょうか? 「真・善・忍」を実証しているのではないでしょうか? まさか、この学生が間違っていたというのでしょうか? なぜ、私は内に向けて探さないのでしょうか? どうして私の間違いではないと言えるのでしょうか? このように考えた時、私の教授法に問題があることに突然気づき、その学生の問題を解決するためにずっと前に突き進んでいました。もし後ずさっていたらどうだったでしょうか?

 すぐに解決の道がついたので、その学生に「すばらしい、向上しましたね! 続けて、まじめな授業はせずに、リラックスしましょう。ゲームをしましょう、物真似ショーをやってください。だれかクラスメイトの名前をあなたに言いますから、あなたはどうすればこの人物を演じるか想像し、あなたが考えたこのクラスメイトについて、このクラスメイトをどのように演じれば演ずることができるのか、想像してください。ははは、物まねは1人だけではないですよ、あなたの演技を見てクラスメイトがわかるかどうか、いいですか、チャレンジ開始!」と言いました。

 ゲームが始まってから終わるまでの全過程で、私は楽しく、そして泣きたくなり、心の中で「ありがとうございます、師父」と申し上げ、なぜなら、その学生の演技はとてもよくできて、特にある演技は非常に感動的で、劇中の人物像にとても一致していたからです。その学生に「どうしてそんなに感動的に演じたのか」と尋ねると、その学生は、なぜなら物まねをしたクラスメイトは以前老父を演じたことがあり、その時とても感動し、そのイメージが溶け込み入って来た、と言いました。師父は私が内に向けて探しているのをご覧になり、私に知恵を授けてくださり、このやり方が成功しましたが、この成功の手段は何だったのでしょうか? 

 実際、この学生は非常にしっかりしており、表面上は他のクラスメイトの意見を聞き入れますが、この学生はとても上手にやりたがり、どんな演技をしても心の中でいつも「今度こそ、絶対うまく演じなければならない」、「ああやって、こうやってうまく演じなければならない」、「今度は必ず違った変化がなければならない」と思っており、終始「自分」を放下できなかったので、どんなに演じてもそれはその学生自身の「自分」だったのです。

 この「物真似ショー」の練習で、他の学生がどのように演じているのかを想像するために、まず自我を捨てなければならず、続いて人の立場に立って物事を考えなければならず、そして、その学生はすぐに自我を突破し、心と思惟が開かれ、体も自由になり、さらに、クラスメイトの知恵と経験を参考にすることによって正しく演技したのでした。そして、このすべてはまず、大法弟子としての私が、師父の法に従ってまず「自分」を放下したからです。「内に向けて探す」ことは本当に本当に宝物でした。

 師父が説かれた、大法弟子が互いに協調し協力する法理について、修煉の中で苦労を舐めて鍛え上げられた後、実際的な悟りがあり、うまく協力できない根源はやはり旧宇宙から送られてきた「利己的」な特性であることがわかりました。演技の訓練の中で、この理を学生たちにわからせることができるかどうかを考えていました。特に中国では、中国共産党の教育で、多くの若者が強い闘争心と嫉妬心、そして顕示心を持っています。演技の練習を組み立て、学生たち自身のふだんの思想と言動の中にどれだけの私心が隠されているのかを学生たちに見せ、学生たちの中国共産党文化による思考を解体するのです。

 師父の法理の指導の下、「誰が先にゴールに着くか」という練習を組み立て、左から右まで教室の演技区域に各種のブロック(演技の時に用いる各種の大きなブロック)で障害を設けた小道を組み立て、学生を4組に分け、それぞれの組は4人で、各組が1人を選んでスカーフで目を隠し、この障害の小道を行くのですが、その行程には厳格なルールがあり、目隠しをしたクラスメイトのことは誰かが手を貸すことはできず、その組のその他の3人のクラスメイトが言葉で目隠しをしたクラスメイトにどのように行動するのかを教え、最後に最も短い時間だった組が勝利するのです。

 以前、常人も障害物を歩くこの種の練習を行なっていましたが、常人の場合は、1人だけが目隠しをした人にどのように行動するのかを伝えるもので、この練習は「信用練習」と呼ばれていました。しかし今、この練習における重点は1人による導きにとどまらず、3人が皆口を開き、共同で協力して導かなければならないのです。この練習は年齢がバラバラの学生もやったことがあり、毎回、効果はとても良かったのです。そして例外なく、最も時間のかかったその組のクラスメイトは口をはさむのが好きで、互いに相手の指示に満足せず、中でもひどいのは指示を出している途中で文句を言い、争いをしました。

 しかし、最も短い時間の組はいつも1人を主として、他の2人が補助し、必要な時に説明を補充し、時には小声で相談し、どのようにすれば目隠しをしたクラスメイトがより安全に歩いてゴールできるかを見ていたのです。そして、興味深い現象は、どのクラスも例外なく、負けた人は得てして際立った行動を示し、自分を誇示するのが好きで、この練習でもとても勝ちたいと思っていたのです。しかし、勝った人は得てして普段みんなから目立たないと思われており、際立っておらず、練習の時もそんなに必死に勝とうとはせず、より関心を高めていたことは目隠しをしたクラスメイトの安全でした。

 最も面白く、最も楽しかったことは、毎回、この練習を終えると、この練習の体験を学生たちが一緒に交流し、勝ち負けを作り出した原因を分析した後、特別に勝ちたいと思っていた、際立った行動を示していたクラスメイトに穏やかさが現れた時、ガラリと違っておとなしくなり、何かが心に入ったかのようでした。

 普段からよく対策を決める女の子は、それ以後、毎回劇の構想を相談する時、その女の子はまず静かに人の話を聞き、それから必要があれば不足を補っていました。私はその女の子の変化に驚き、その女の子に尋ねると、その女の子は「この間先生は、いつも自分を表現してはならず、人の考えを多く聞かなければなりません、と言いませんでしたか」と言いました。それを聞いて、私は安らぎを感じてうれしくなり、なぜなら、その女の子が変わった後、クラスメイトはさらにその女の子が好きになったからです。

 さらに重要なことは、私の向上を通して、私の常人の仕事の中で、周りにいる常人に影響を与え、宇宙特性に基づかない学生たちの体の中の観念と行為を解体し、真相を伝えるための基礎を定めた事です。法はこんなにも博大で、師父はこんなにも慈悲深く、この「大道無形」な修煉形式の中で、雨が静かに降り、万物に潤いを与えるかのように、多くの生命と多くの環境を改めました。

 法の中で次元が向上し知恵を得て、演技の授業の中で、修煉していない常人を助けただけでなく、同修を助けることもできました。

 ある同修(以下・Aさん)が声楽を学んでおり、声楽の技巧はとてもよいのですが、舞台で歌うと自信がなくなり、Aさんを教えている常人の先生によれば「オーラがなく、表現力もない」ということです。私たちは修煉中に互いに助け合い、共に向上してきたので、専門の技能の上においても助け合ってきました。Aさんは声楽の方面で私にアドバイスし、私は演技の面でAさんにアドバイスしました。

 その頃、「個人修煉とは何か」、「法を正す修煉とは何か」について悟り、ずっと考え続けていました。当時、Aさんはミニコンサートの出演に加わっており、世界で知名な音楽の劇中歌を歌っていました。Aさんが歌って聞かせてくれましたが、やはり自信がなく、目が死んでおり、体に締りがありませんでした。Aさんはまったく緊張はしていないが、人前で表現しようという気持ちがないから、表現できないのだ、ということを私に伝えました。

 そこで、私は「しかし、私たちは大法弟子の立派な風采を現さなければならず、なぜなら、私たちは法を正す時期の大法弟子で、個人修煉の段階にはいないからです。私たちは舞台の上で自分を表現するのではなく、心性が向上した後の大法弟子が理解する音楽と、高次元で見ることができる芸術を現さなければならないのです」と言いました。着実に修める中で、教学、演技、監督の仕事を人を救う法器とした私の心得をAさんと分かち合い、師父が『洪吟二』「劇一台」の中で説かれた「天は幕と作り 地は是舞台 乾坤を運び 天地開く 万古の事 法の為に来る 法輪転じて 新たな三才」を思い出すように提案し、普通の舞台に立っているのではなく大宇宙の大舞台に立っている、ということを、毎回の演技の時にAさんに想像させました。

 すべての生命がAさんの歌を聞いており、自分の神通を運用し、自分の体のミクロからマクロまでの全てを結集させて、修煉した後の大法弟子が理解する生命のさらなる高次元の歌声を聞いてもらい、自分の歌声を通して、Aさんの声を聴くことができるすべての生命に向けて大法を実証するよう、Aさんに提案しました。そして、Aさんがもう一度歌うと、すぐに正の力が放出され、目と身体が話し始めました。

 しかし、Aさんがもっとよくなることがわかったので、Aさんに「あなたの宇宙はまだあまり大きくないので、あなたの歌声を聞いた生命はあまり多くなく、あなたの心の中の法に対する信念がまだ完全にはみんなに表されていないので、もっとよくできますか?」と伝えました。続けてもう1回、さらにもう1回、1回ごとにさらなる大きな空間を突破し、そこに立っていたのは恥ずかしそうにしている歌手ではなく、さらに心の奥底から体が話すことができ、目には確固とした正念のまなざしがきらめいている法を正す時期の大法弟子で、最も感動的な歌を歌っていました。常人の中の知名の教授が長期にわたり解決できなかった問題を、私たち大法弟子は交流の中で30分かからずに解決してしまいました。

 『轉法輪』という書籍は私たち大法弟子に正念と知恵をもたらすだけでなく、まだ修煉していない常人にも限り無い知恵をもたらします。ある時、芸術界の友人に大法の真相を伝えたところ、友人は大法に対して正念を持っており、師父の『轉法輪』をとても読みたがっていたので、その友人に1冊送りました。そして、私と会った時、その友人は激した様子で「この本は本当に素晴らしい! 演技と教学に多くのひらめきを与えてくれました」と言いました。そこで、その友人は早々に演技の授業で学生を啓発した結果、思いのほか学生に非常に良い演技の状態が現れ、学生たちも激した様子で、特別な感じを受けたようでした。その友人は激した様子でこのすべてを私に伝え、この本をちゃんと読まなければならない、と私に言いました。

 友人の話を聞いて感慨深くなり、まだ大法を修煉していない常人が、その時、まだ完全に『轉法輪』を読み終わっていないにもかかわらず、その中でこんなにも大きな知恵を得たのですから、『轉法輪』は天の書物ではない、などと誰が言うのでしょうか? はっきりと覚えているのですが、数カ月前、明慧ネットで同修の交流文章を読んだ時、文章の中で「師父は『轉法輪』の中でどのように田植えをするかを書かれている」と言っていました。そうです、師父はどのように田植えをするかを書かれているにとどまらず、どのように演技するか、どのように絵を描くか、どのように商売をやるか等々を書かれています。世の中にある物すべてについて、どのように行なうべきかを師父は全て書かれています。

 修煉していない常人は、私のこの話を聞いて、『轉法輪』を借りて家に帰って拝読し、「金持ちになる」方法を見つけ出した、と思うかもしれませんが、表面的に探すだけでしたら、「どのように田植えをするのかがどこに書いてあるのか、どのように商売するのか、どのように演技するのか、そのようなことについて書いてある文字は一つもない」と聞くかもしれません。そうです、表面上は書かれていないように思われるかもしれませんが、師父は全てをこの大法書籍の中に圧縮され、入れられたのです。私たちが着実に修め、絶えず心性を向上させさえすれば、それらを見ることができ、さらに向上すれば、さらに多くを見ることができ、絶えず向上すれば、限りなく見ることができ、さらにさらにたくさんのものを見ることができるのです。

 三、師父は奇跡を現しになり、人を救わせてくださった

 ある日の授業の前に、頭が突然痛み出し、その時、妨害だと気づいたので、心の中で「誰も私を妨害することは許さない、頭を痛ませることはできず、なぜなら、私は授業で法を実証し、必ずこれらの生命を救わなければならないからだ」と言いました。その瞬間、強い頭の痛みは消失し、頭がすっきりして気持ちが爽やかになりました。

 午後の授業はとても順調で、さらに真相を伝えるチャンスもありました。学生たちはまじめに聞いていたので、私にも恐怖心はありませんでした。突然、1人の学生が「先生!」と叫びだしました。そこで、私は「どうしたの?」と言いました。その学生を見ると、驚いて私の後ろを見ており「先生、先生の後ろに菩薩がいらっしゃいます! いやあ、弥勒菩薩も現れました! でもとても小さく、菩薩が先生の後ろにいて、弥勒菩薩は少し遠めの所にいらっしゃって、さらに高いところにいらっしゃいます」と言いました。

 その時の私は、本当に心の中でさまざまな感情がない交ぜになりましたが、師父がそばにいらっしゃり見守り、助けてくださっていることは法理上でわかっていましたが、今回は意外にも常人の肉眼にもお見せになり、他の学生には見えなかったようですが、明らかに他の学生も胸が熱くなったようです。そしてその日、学生たちは真相を知りました。

 ある時、公演の劇を組まなければならず、脚本を選ぶ時はいつも、真相を伝えるのにプラスになるものを選ぶのですが、最終的に、2本の脚本を最後の選択として選び出しました。一つは第二次世界大戦を題材にしてもので、もう一つはヨーロッパの古人が信仰を堅持するものでした。その中で、第二次世界大戦を題材にしたものは劇を組んだことがありましたが、古代ヨーロッパの脚本では詳しく読んだことはなく、大体のことを知っているだけでした。

 この脚本を左側の床の上に置き、それから学法を始め、法の勉強が終わった後で、再び脚本を読んで、そして最終的に決めようと思いました。学法していた時、突然、左側で何かがきらりと光ったように感じましたが、気に留めず、錯覚かもしれないと思い、続けて学法しました。しばらくすると、また光ったように感じ、さらにひっきりなしに光っており、まさに脚本が輝いているというのでしょうか? 振り返ってその脚本を持つと、手の中で輝き続けていました。これは、師父がこの脚本を選ぶように私に伝えてくださっているのだ、とわかりました。そしてリハーサルの時、果たしてこの脚本が真相を伝える多くの機会を提供し、俳優が脚本を理解できない時に真相を伝え、リハーサルが順調でない時に真相を伝え、俳優の演技がよくなかったり、調和がとれていない時に真相を伝えました。最後に、劇は組み終わり、演出も成功し、みんなも真相を理解しました。

 四、芸術を創作する中で着想を得る

 私は中国におり、神韻芸術団と天国楽団の演出に参加できませんが、私もさらに大きな役割を果たしたいと思いました。私は「普段、演技をする時、何か方法があれば、神韻芸術団と天国楽団のような役割を果たせるのではないか」と思っていました。もちろん、私が演じるのは常人のもので、劇を作っても大法弟子が私一人ではあんなに大きな力を持つことはできませんが、いつでも参考にすることはでき、できるだけ大きな作用を果たせないだろうか、と考えました。

 そのように決心を付けた後、まず毎回、演出する時に強大な正念を発することを決め、私自身を清め、私が演出する劇場を清め、毎日劇場にやって来る生命の空間場内にある、法を正す時期に合っていないすべての邪悪要素を清めました。劇場に到着してからすべての演出が終わるまで、いつも正念を持ち続け、さらに多くの場合、俳優は最初から最後まで舞台にいるわけではなく、私は静かに舞台脇で集中して正念を発し、楽屋で他の俳優たちと話はしませんでした。毎日こんなに多くの観客が観劇に来ていますが、劇場以外で観客たちに会おうと思っても会えないので、観客たちのために正念を発しました。師父の慈悲のおかげで、私の演劇の入場券売り場はいつも賑やかで、いつも続々と衆生がやって来ました。

 思想が純粋な状態で正念を発することができる時、同じ舞台にいる俳優の状態はとても良く、俳優たちの演技もとてもきれいで、観客の反応も素晴らしかったのです。しかし、私が名利心に妨害された時には、たとえ正念を発してもその効果は影響を受け、俳優たちの舞台での演技は舞台上での役から抜け出し、自分をひけらかし始め、楽屋で笑い話を話し、観客の物音も大きく、ローセンスな笑い声を発していました。この対比がはっきりと現れたので、私の清らかな正念は強大な威力を持つようになりました。演出を利用して正念を発して人を救うこの事は正しいことです。ですから、毎回の演出で力を尽くして強大な正念を保持し、思想も妨害を受けませんでしたが、もしうまくできなければ、早々に調整するか、演出後に心を静めてしっかりと内に向けて探しました。

 次に、自分に向かって「教学と芸術創作で私は人を救うのだ」と言いました。毎回、演出が始まるとこのように自分に言い聞かせ、すべての表情、すべての動作、すべての声、すべての思想とすべての念は大法のエネルギーを帯びていました。多くの観客が演劇を見終わった後、いつも「あなたのオーラは非常に強大です」と言いました。常人にはオーラだけがわかるのであり、私が帯びているものが法輪功の修煉におけるエネルギー場と強大な正念であることを常人にどうして知りえるでしょうか。多くの観客が「他の俳優が舞台で上演している時は眠くなりましたが、あなたが出て来ると眠くなくなりました。また、あなたが出場すると、舞台にどれだけ多くの人がいたとしても、私たちのまなざしは思わずあなたに向いてしまうのです」、 「あなたが言うセリフは最大ではありませんが、最もはっきりと聞こえるので、本当に不思議です」と言いました。そうです、師父は『轉法輪』の中で「この場は一切の間違った状態を正すことができるからです」と私たちに伝えてくださいました。

 師父は私たちに「異なる次元に異なる法があり」[1] 、「修煉の中、どの次元にも名残り惜しむことなく、全過程を修め終えてから初めて圓満成就できるのです」[3] と教えてくださいました。ある時、出演中に偶然経験したことですが、私はさらにまだよく行なうことができることに気づきました。その演劇のリハーサルの時間は短く、監督が私に按排した指導も少なく、開演の前はずっと尽力してうまくやろうとしましたが、私の演技はまったく精彩を欠き、正念を発して、確かに邪悪を除去することはできましたが、法はこの世間での理を打ち破ることができず、私の演技がありふれたものであったため、観客の私に対する信任を弱らせた、と観客は感じていました。同じ舞台にいた俳優さえも私に対して敬意を示さず、これは真相を伝えることに影響しました。

 その日の出演の前、ある事故が起きて投影機が壊れ、楽屋にいた係の人は慌て、いろいろな方法で解決しようと考えました。この事故は直接私に影響があるものではありませんでしたが、係の人が慌てた様子なのを見て、突然「私たちが遭遇するすべては偶然ではない」という師父の教えを思い出し、「この演劇において、ずっとある種のエネルギーによって災いを受けているので、これを突破する方法を考えなければならない」と思いましたが、何もできませんでした。

 神通力! 師父は私たちに「私たちは大きな神通力を備えている!」と教えてくださいました。その時、開演まであと1分に迫っており、会場の明かりは消え、暗闇の中で自分に「神通力を運用して演技し、師が法を正すことをお手伝いしなければならない」と言い聞かせました。この一念が出て来ると、奇跡が起き、今まで体験した事のない強大なエネルギーを帯びて演技し、まったく無駄がなく、またとても正確で、時には主意識が飛び出すような感銘を受け、これを私はどのように表現したらいいのでしょうか? このリズムは、どのように把握すればこんなにも快適になるのでしょうか? 今日のこのダンスのステップはどうしてこんなに素晴らしいのでしょうか? 演技が終わると、知り合いではない2人の観客が激しながら化粧室まで走って来て、私に会うと「あなたの演技が一番よかったです! あなたの演技は素晴らしかったです!」と言いました。何度も私と共演していて、その日も出演していた友人が、私のその日の演技はとてもよかった、と伝えてくれました。その日、本来何かをする時に基点が純粋であれば、何と神通を動かして演技ができるのだ、ということに初めて気づきました。

 多くの演技の経験の中で、法の中で得られる知恵がまだ多くありますが、ここでは詳しく述べません。

 師父が与えてくださった知恵は、中国の芸術界で真相を伝え衆生を救う良い環境を造る助けとなりました。プロフェッショナルで優秀だったので、多くの常人が私が話した話を信用していました。多くの人が真相を知り三退をして、真相がわかった後、黙って大法弟子を保護していました。真相を伝える過程の中で、小さい頃に大人と一緒に修煉していましたが、迫害が始まり修煉しなくなってしまった昔の小同修に会いました。その同修が改めて修煉の道に戻って来るよう助けたいと思い、これまでにまず第一歩を踏み出しました。昔の同修が三退するのを助け、後の時間は昔の同修を連れ戻すために、できるだけのことをしました。

 私は「中国の芸術界の同修は自分が芸術の仕事を通して、真相を伝え人を救った出来事を文章に書いて、紹介することが何年もの間少なかったのです。私は多く文章を書きたいと思い、なぜなら、異なる段階ではいつも新しい収穫があるからです。しかし、書こうと思った時はいつも、突然特に忙しくなるので、何度も妨害を受けるので、その時期に法を実証する機縁を何度も逃してきた」ことに気が付きました。

 今日、特別に中国の芸術界の同修たちに「忙しさの為に方向を見失って『書く時間がない』と言わない事、自分がしっかり修めていないことを恐れて『書こうとしない』などということはしないこと。かつてあなたが言った事を覚えていますか、法の中で知恵を得たので、絵画を教える授業の時に学生の尊敬を勝ち取り、1組また1組と学生に真相を知らせたことを。

 かつてあなたが言った事を覚えていますか、声楽を教えている時に、あんなにも多くの学生を大法に出会わせ修煉に導いた事を。かつてあなたが言った事を覚えていますか、演劇の巡業中の各種の艱難、複雑な環境のテレビドラマのグループの中で、どれだけの人を三退させたのかを。みなさんがこのすべてを惜しまないのだとすれば、すべては時が経つにつれて流れ去り、歳月の中に隠れてしまうのではないですか? 同修の皆さん、書きましょう! そして法を実証しましょう!!」と申し上げます。師父は「皆さんに教えますが、歩んできた道、行なってきたこと、そして法を実証する歳月を大切にしましょう。歴史は過ぎ去り、二度と戻ってきません」[4] と説かれました。

 師父の慈悲なるご加護に感謝いたします! この文章を書いたまるまる3時間の間に、18年間の修煉過程を思い出し、頭の中の全てを整理しているうちに、師父が与えてくださったものは本当に山ほどあることに突然気づき、感慨無量です。私は修煉が全くできておらず、遊びに夢中になってしまう怠け者の弟子であるにもかかわらず、少し心性が向上しただけで師父はすぐに大きな知恵を与えて、私に人を救わせてくださったのです。18年間という修煉の歳月と比べれば、今日書いた内容は、無数の星の中のいくつかの小さな星のようなもので、本当はさらさらにたくさんあり、未来もさらにさらにたくさんあるので、筆で耕し中断することなく耕し、明慧ネットの修煉交流の場で法を実証し続けます!!

 ありがとうございます、師父!

 ありがとうございます、同修の皆さん!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の
経文:『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「明示」
 [4] 李洪志師父の経文:『二十年説法』

 (明慧ネット第9回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/28/264309.html)
 
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