「良い脇役を務めよう」について
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年8月20日】同修と交流または協力して一緒に仕事をする時、不快感やぎこちなさを感じることがよくあります。こういう場面が多くなると、同修との接触を避けがちになります。トラブルを減らすためのようにみえますが、根本原因は何でしょうか? 最近になってようやく気づきました。それは自分が脇役ではなく、主役になりたいからです。どんな時も、主役になることができなければ不愉快になります。これは非常に強い自我の表れです。このような心をきれいに取り除くことができなければ、新宇宙の生命の基準に達することができません。

 ある日、私はある年配の同修が手配した20人ほどの交流会に参加しました。全員が集まったのを見て、私は交流のテーマが何であるかを年配の同修に聞かずに、地元の同修たちが携帯電話を使う時、いかに安全問題を疎かにしているかを多くの例を挙げながら延々と喋り出しました。私の話に賛成する同修もいれば反対する同修もいて、皆で2時間近く議論しました。そろそろ解散しようと言われた時、私は初めて年配の同修を思い出しました。彼は静かに皆の話を聞いていました。

 今でも申し訳なく思っていますが、そもそもその年配の同修が交流会の主人公で、皆と何かの問題について交流されようとしていましたが、脇役の私に場を壊されてしまいました。私にますますはっきりみえてきたのは、大法弟子たちはかつて王だったので、皆はっきりした自分の考えと複数の能力を持っていて、思想の根底に強い自我があります。ある問題または事案を出されると、それに応対するプロセスがすぐ脳裏に浮かんできます。このプロセスにはあなたの能力と智慧が含まれているので、あなたはそれが最善策だと思い、言い出さない(または発揮しない)と気がむしゃくしゃしてしまいます。この時、ある肝心なことがよく忘れられてしまいます。「誰が出した質問ですか? 誰が主人公ですか? この問題において自分の役割は何でしょうか?」。 答えが分かっていなければ、主人公を傷つけ事案も台無しにしてしまうのです。

 熟考する価値がある教訓があります。ある日、2人の同修を連れて友人の家を訪ねました。雑談するうちに、1人の同修は友人に真相を伝え始めました。もう1人の同修も我慢できずに口を挟み、2人は交互に真相を伝え、しかも、話すスピードが非常に速かったのです。友人はこっちを見たり、あっちを見たりして、誰の話を聞くべきか分からず、ただ微笑んで頷いていました。2人が長く説明したにもかかわらず、友人はやはり真相を理解していませんでした。もし1人は真相を伝え、もう1人が黙々と発正念をしていたならば、効果がもっと良かったと思います。

 1人の人間の能力と智慧はどれほど大きくても、一つの次元に限られる表れに過ぎません。次元が高まるにつれてより大きな能力と智慧が現れてきます。自分自身を大きく見てしまうと、他人が小さく見えてしまい、自分自身を強調するあまり、他人を無視してしまうことになりかねません。真の向上は脇役に甘んじて相手に協力することであり、抜きんでていくことではありません。「小坊主」になる気持ちがなければ高く修めていくことができません。

 地元の協調人の間でもこのような現象があって、いつも協力し合うことができず、ひいては大きなトラブルとして抱えてしまいます。根本原因は誰もが脇役を務めたくなく、他人に協力してもらうことができても、自らは絶対にしたがらないのです。ある有能な女性協調人は他の同修の協力の下で、多くの大法の仕事をこなしていますが、他人には絶対に協力の手を差し伸べません。時間が経つにつれて、同修の間では常人の派閥のようなものが形成され、結局、彼女は自分の威張るという漏れによって、旧勢力に隙を乗じられ連行されて、重い判決を言い渡されました。

 個々の修煉者を常人社会の家庭に喩えてみれば、それぞれの家庭に異なる家を治め財務を管理する特性があるはずです。あなたは他人の家に行き、門に入るや否や「このキャビネットはこう置くべきだ。あの食器棚はああ置くべきだ」と言えるでしょうか? それはあなたの家でしょうか? もし2人の覚者が出会い、1人の覚者が相手に「あなたの世界はこのようではいけません。私の世界はどれほど素晴らしいでしょう! あなたは変えるべきです!」と言うのは可能でしょうか?

 大法弟子たちが行なっているプロジェクトにしても同じです。協力し合うことができなければ、自分の役割を理解できず、主役にならなければ不快に思ってしまうのが原因だと思います。ある印象深いことがあります。地元のある協調人が最初出て来た時、見た目には目立たぬ外見をしていて教育水準も高くなく、口下手で、私は心の中で「あなたのような人は家にいた方がいい。協調人になれるの? 皆をまとめることができるの?」と思いました。しかし、彼の仕事ぶりがしっかりしていることを後になって気づきました。同修が連行されたり病業の関に遭うと、彼はすぐに発正念をするように皆に通知を出したり、資料点を立ち上げたり、同修のパソコンの設置を手伝ってあげたり、法会を催したりして、大法デーへの投稿文章が必要とされたときに、彼は別の協調人と一緒に同修たちと交流を行ない、地元から300編近くの文章を出しました。そのうちの5編が明慧ネットのトップに掲載され、他にも十数編が一般文章として発表されました。

 私はこの協調人を敬服し、彼の仕事をサポートしながらこう思いました。「なぜ彼が協調人になった当初、私にはそんなに多くの良くない考えがあったのか? やはりそれは私(し)であり、うぬぼれであった。邪悪な環境の中で、自分は主人公を務めたくないが、他人がなれば納得いかなかったのだ」。その後、私はこのように認識を改めました。「誰であろうと、たとえ新しい学習者が協調人になっても、私は黙ってサポートすべきだ」。 脇役自身にもアイデアがあって、自分のベストをもって相手の不足を補うことができます。あなたは主役のそばでアシスタントを務める際、時々彼に「私にはこのような良いアイデアがありますが、必要でしょうか?」と声をかけ、彼を成功させるプロセスは即ち自分自身を向上させることなのです。

 彼を排斥して、自分が主役として行動するのではありません。脇役を甘んじて務めることができるのは、苦心して修めた境地なのです。

 大法弟子たちは異なる区域から来ており、生命の構成要素が違い、生命を表現する特徴も違っていて、大きな差異があります。協力に際して、誰もが主人公になりたければきっと混乱が起きます。旧勢力はあなたを操って主人公にならせ、目的は皆のトラブルを引き起こすところにあります。自分自身を「脇役」に位置付け、相手を理解しその考えに合わせていく気持ちを抱き、真に無私無我になることができれば、それこそ境地であり、その境地で物事を行なえばトラブルが少ないだけでなく、少ない労力で絶大な効果を得ることができるでしょう。

 浅はかな見識に過ぎず、同修たちのご参考になれば幸いです。
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/8/8/372192.html)
 
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