青年大法弟子 衆生を救うことについての悟り
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 文/中国の大法弟子

 明慧日本2019年8月30日】ある日、法輪功の資料を配っていた時、私服警官に遭遇しました。今回はいつもと違って、私の色欲心に対して試練を与えられました。パトカーの中で、警官が自分の頭をマッサージをしてくれたら見逃してやると私を脅迫しました。そして、それを考えるようにと私に数分の時間をくれました。私は心の中で、いかなることでも師父が決定権を握られていることを確信して、そして、たとえ拘置所につれていかれても、修煉者の原則に即していない行動は決してとらないと心に決めました。

 今回の試練を無事に乗り越えることが出来ました。帰宅後、自分には一体、何が不足しているのかと反省してみました。色欲心をきれいに取り除いていなかったため、邪悪に隙に乗じられたのが一つの原因だと分かったのですが、さらに奥深く探してみると、真相を伝える時、相手を選んでいる行動が主な原因だとわかりました。師父は仰いました。「人を済度することは即ちすべての人を済度することであり、人を選ぶことは慈悲ではありません」 [1]この法を読んで、私は師父が説かれたこの法に対する理解が更に深まりました。それと同時に、自分の至らない処を見付けることができました。

 まず、真相を伝える対象を選ぶことについてですが、相手の年齢を分別して真相を伝える時に、年配者を、性別で分ける時には、女性を、職業で分ける時には、肉体労働者を、健康状態で分ける時には、健康な人を、人相で分ける時には、優しそうで、おとなしい人を選んで真相を伝えていました。もし、このようなやり方をずっと続けていたら、若い人、中年の人、職位の高い人、重病を患っている人、人相の悪い人はどうすれば良いのでしょうか?

 人を選んで真相を伝える原因は、救われた衆生の数を求めていることと恐れる心があるからです。年配の人は定年退職をして、暇な時間があるためガラケーを使う方が多いことから考えて、比較的に安全性が高く、真相も伝え易いのです。若者と中年層は仕事が忙しい上、多くはスマートフォンを持っていて、写真撮影や、動画の録画によく使われているため、真相を伝えにくく、安全性も低いからです。実はこれらの概念はみな自分で自分の頭に植え付けたものであって、自分に制限をかけたものです、しかも植え付けられたそれらの概念よりも、更に多くあるものは自分の私心なのです。師父が私達に「今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」 [2]のような境地を目指すことを期待されておりますが、私の行動は師父の要求とどれほどかけ離れているのでしょうか!

 そして、私は真相を伝える先方の人数で選んでいることについてです。私はいつも相手の人数は1人か2人の時に真相を伝えているのですが、先方の人数が2人以上の場合、真相を伝える勇気がないのです。これは自分の修煉境界に関係しているのかもしれません。そのことについて、私はずっと突破できませんでした、チャレンジもしたことがありません。しかし、もし自分が慈悲心を抱いて、私心を持たずに試みれば、予想外な収穫を得られたのかもしれません。

 ある日、駅で待ち合わせをしていた友人・Aさんに真相を伝えました。しかし、Aさんは三退に賛同してくれませんでしたし、資料も受け取りませんでした。するとAさんの友人ともう1人の人が駅に現れました。私は混雑してきましたので、その場を離れようとしました。その時、Aさんの友人に連れられた人だけが去っていき、Aさんとその友人は残りました。今度は法輪功の資料をAさんの友人に渡しながら「これは法輪功に関する資料です」と伝えました。その友人はAさんに「これは素晴らしい、あなたが要らなければ私がもらう」と言いました。その時、Aさんは「私にも下さい」と言って資料を受け取りました。続いて私はAさんの友人に三退のことを尋ねました。彼女は「もう既に三退しました」と答えました。また、その友人はAさんに「法輪功のことは誰にも関係している大事なことで、獣の印を取り除けば、平安も保てるのよ」と勧めました。Aさんは友人の話を聞き、快く三退しました。

 真相をまだ知らない、先に去ったもう1人のAさんも、さっきの場に居合わせたら、Aさんと同じように三退に賛同してくれたかもしれません。だからAさんの友人のように、真相を知った人々は真相を伝える私達を助けてくれることになります。ここまで書いて、師父の説法を思い出しました「友人を騙さないから、良い公演だと友人に薦めたのです。家族に対しても同じです。ですから、信憑性が高いのです。広告にはこの効果はありません」 [3]もし私達が自分と出合った、大法とご縁のある人々及びその人々が置かれた環境をもっと大切にしていたら、現在、また違う光景が繰り広げられていたのかもしれません。

 要するに、人を選んで救うことは様々な執着心の援護の下で自我を保護する行為であり、衆生の安否を度外視する利己的行為でもあります。利己心を取り除いてこそ、初めて他人のために奉仕する心が生まれて、真の慈悲心が現れるのです。毎日、確実に十数人の人々を救う同修達にはきっと人を選ぶ心はないと思います。もし、真に自分の修煉を高め、衆生を救い済度することにおいて突破しなければ、人を選ぶ心を取り除くことから着手しなければなりません。もとろん、安全と加減を考量したうえでの話ですが、心性の高さが基準に達してなければ、強引に行ってはいけません。

 個人的な浅い認識です。不足なところがあれば同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨ ーク国際法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/7/1/389414.html)
 
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