「善」を説く
■ 印刷版
 

文/中国人の大法弟子

 【明慧日本2019年10月8日】私達が修煉者として「善」を説くことは、修煉の中で最も基本的に要求されるものです。ここでは、義母の世話に関する夫との会話から交流したいと思います。 

 私:「私はとても善良でしょう」
 夫:「常に自分が善良だと言うなよ。実際、善ではないと思うよ」

 私:「どこが善ではないの? 言ってみてよ」
 夫:「自のことを善だと言う者は、必ずしも善であるとは言えないと思う。それは一時的なものだろう」

 私:「どうして?」
 夫:「本当の善は、心から発したものではないのか。それは代価を問わず、見返りも求めないものだ。でも、お前には求める心があるから、善ではないと言っているんだ」

 私:「例えば?」
 夫:「例えば、母がえこひいきしても、オレは全然気にしない。親孝行すべきであれば孝行して、心の中では全く何も気にしない。兄さんと比較もしない」

 私:「それは、あなたの心が大きいからじゃあないの?」
 夫:「心が大きいのではなく、度量があるからだよ」

 私:「あなたは、どうしてできるの?」
 夫:「これは大したことではないよ。彼女は私の母親だ。私は恩だけをみて、過ちなどは全然見ない。いつか母が天国へ行っても、彼女のベッドで安心して寝られる。なぜなら、オレはやるべきことをしたので、悔いはないし、怖くもないからだよ」

 それを聞いて、私は無言になりました。師父が他人の口を通して、自分のまだ気づいていない隠された人心を認識させてくださいました。一人の常人の度量がこんなに大きいのに、私はいつも「自分は修煉者だ」とか、 「真・善・忍で自分を律している」とか言って自己満足し、自分はとても善良であると思っていました。しかし、実際には大法が要求している「本当の善」と、随分かけ離れていることが分かりました。

 師父が「本当の善とは、修煉者が修煉の過程で、善をもって修めている過程ですでに出来上がった本当の善のことです」[1] 、「これは慈悲であり、わざと表したのではなく、人間の善悪と好みの表れではありません。やさしくされたら善をもって接するということではありません。それは代価がなく、報酬も気にせず、まったく衆生のためです。ですから、慈悲が現れると、この上ない力があり、いかなる良くない要素も解体されてしまいます。慈悲深くあればあるほど、力が強くなります」[1] と説かれました。

 師父の法理は、修煉の厳粛性を悟らせてくださいました。修煉した以上、表面の事にあまりこだわらず、一歩一歩、真に修めなければなりません。それには多く学法し、よく内を探すべきで、現状に満足することは良くないことです。そして、自分に潜在している執着心を探し出し、取り除かなければなりません。「善」がどれほど多いかは度量がどれほど大きいかによるのです。「度量」が無限であれば、「善」も無限で、「慈悲」も無限です。これが本当の修煉だと認識できました。これは今の次元での悟りですが、不適切なところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 師父のご加持と導きに感謝いたします。 合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/9/23/393676.html)
 
関連文章