何事も 師を信じ、法を信じる
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文/カナダの大法弟子

 【明慧日本2019年8月18日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆様、こんにちは!

 時が経つのは早いもので、修煉してからすでに8年になりました。修煉に対する理解も時間が経つにつれ変化してきて、以前に理解できなかった法理が突然分かるようになったり、強い執着心も偶然な出来事で一瞬にして、放下したりすることがよくあります。

 一、善を修める

 「人が気に入らない心」という内容の交流文章がよくありますが、なぜ人が気に入らないのでしょうか? 以前はそれなりの理由があり、「事物にはすべて二つの面がある」と思いました。一見すると理性的だと思われますが、実は修煉に手抜きしているところがあるからです。

 例えば、ある人の言動が気に入らない場合、私はいつも「この人は何でこうなのか。まあ、人は人、自分を修めるだけにしよう」と思って何も言わずにその人を避けていました。今まではこれこそが自分を修めていると思い込んでいましたが、最近になってこれはずる賢いやり方で、善を修めるべきチャンスを逃してしまったと分かりました。善は想像によってできたものではなく、修煉により顕れてきたものであり、人と接する中で自然に現れてくる態度や穏やかな口調、柔らかな表情、相手を考える誠意、それに自我を放下する覚悟など、人と互いに影響し合う中で試され、修めていくものだと思います。

 良くない行為、違法な行為、あるいは常人に悪い影響を与える行為など、それらを無視して黙っているのは、自分を修めたと言えるのでしょうか? もしそう言えるのなら、なぜ、自分の内心で人の行為を評価したり、気に入らなかったりするのでしょうか? 自分を修めるという口実で、ずる賢い自我を保護しているのではないでしょうか? すべての出来事は、みな自分の空間場の修めるべき物質の現れだと、私はようやく分かりました。

 しかし、自分の心の裏に一瞬にして現れた不愉快な気持ちを察しても、その後ろに隠されている執着が何か、またなぜそれに左右されるのか、その根本的な問題が見つかりませんでした。これについて同修たちと交流しましたが、容量を拡大すべきだとか、人に対する観念を放下すべきだとか、無視して放置しておくとか、様々な指摘がありましたが、やはり何が足りないと感じました。

 ある日、ある同修から私には善が足りないと言われた瞬間に、ぱっと明るくなりました。「そうだ、善を修めることだ!」。自分が善良だと思うだけでなく、日常生活の中で何かを考える時や行動する時に、善の心をもって善を修め、それに人を助けることです。和気藹藹で、おせっかいな人が人に対する関心は本当の善なのか、時々疑問に思いました。師父は『精進要旨』「善を説く」の中でこのように説かれました。「大法は圓容しており、真・善・忍の三文字を分けても、同様に、真・善・忍の特性を充分そなえています。なぜなら物質はミクロの物質から構成されたもので、しかも、ミクロの物質はまた、さらにミクロの物質から構成されており、ずっと尽きるところまで至るからです。ですから、真も、真・善・忍から構成され、善も、真・善・忍から構成され、忍も同様に、真・善・忍から構成されているのです」[1] 真のない善は本当の善ではないと私は思いました。

 「われわれの法輪大法という法門は、宇宙の最高の基準─真・善・忍に基づいて同時に修煉するので、われわれの修煉する功はとても大きいのです」[2]  、「真・善・忍に基づいて同時に修煉する」[2]  。師父の法は私の身体の一つ一つの細胞までも、明るく照らしているように感じました。また、私とつながっている縁のあるすべての生命の細胞までも、明るく照らしていると信じました。このような状態を保つことができれば、すべての生命を大切にすることができると思いました。しかし、それは師父が下さったもので、私自身も地道に、そして、真面目に自分を修めなければなりません。

 二、「主意識を強くもつべし」[2] 

 新聞を読めば、正法の進捗状況や常人社会での変化がよく感じ取れるように、人々が目覚めてきた時期になり、大法弟子が行なっている「三つのこと」に現れています。私が迫害に反対する署名活動に参加する時に、このような出来事がありました。

 署名活動中、私はある人になぜ署名をするのか、法輪大法は何かと説明していたら、真面目に聞いているその人は私の話を中断して、「あなたが『中国共産主義は邪悪である』と言うだけで、私は署名します」と言ってくれました。また「何も言わなくても署名するわ!」と言う共産国から来た人もいますし、「あなた達のことは正しいことだから、頑張ってください!」と励ましてくれる人もたくさんいました。中には法輪大法のために寄付したい人もいました。人々の言動から中国共産(邪悪)主義の解体がはっきり見えてきました。

 人ごみの中で大法の真相を伝える時、人々の声を聴くことで、世の中の変化と人は皆大法のために来たもので、一つ一つの小さな出来事が暖かく感じられました。佛性と人間性本来の善良さが自然に現れ、異なる服装や外観、文化や言葉も重要でなくなり、「大法と縁を結び喜ぶ」が人々の共通の言葉になっています。私は心から彼らに感謝し、特別に表現する必要もなく、生命の深いところの美しさを見せられて、私の生命の意義に対する疑問と修煉自体に対する戸惑いを取り除いてくれました。

 私は師父の法に感動させられて、大法の修煉を始めました。『轉法輪』を初めて読んだ時、これは絶対に神様が書かれた本だと確信しました。なぜなら、人間にはこれほど大きな慈悲があるはずがないからです。大法は修煉者を選んだと思いました。

 しかし私にとって、物心がつく頃から生命の存在そのものに対して疑問があり、しかも頭から離れることがありませんでした。生命はどこから来て、どこに行くのか、また最も原始的な生命の生まれについて、師父はすでにはっきり教えてくださいましたが、私の問題は正にそこにありましたが、聞く勇気はありませんでした。

 『米国東部法会での説法』の中で、ある弟子が「宇宙の中でどうして生命が生じなければならないのでしょうか?」と質問したことに対して、師父は次のように説かれました。「微生物が自分の考え方で人間を認識していると同様に、人間の考えは永遠に神の存在とその考えを分かることはできません。人間は宇宙についてまだ認識しておらず、宇宙がどういうことなのかを知らないのに、なぜ宇宙の中のことを聞くことができるのでしょうか? この質問はつまりなぜ宇宙がなければならないのか、ということを聞いているのと同じです。なぜ宇宙と生命がなければならないのかということを考える必要はありません。これはあなたに分かることのできることではなく、あなたが分かるべきことでもありません。いくら高くまで修煉しても、これはあなたに分かるようなことではありません。もちろん、宇宙を造って、中に生命もなく、何もなければ、ちっとも面白くないのではありませんか? 人間の言葉で言うと、主(全ての王の中の王)または主、佛、道、神が一体になった王の中の王がこのようにしたいからです」 [3]  。自分の頭から離れないその戸惑いは本当の私ではないと分かっていても、長年にわたって私の空間場からなかなか消えませんでした。

 ある日、その疑問が再び浮かんできて、どうしても抑えられず、辛く感じた私は散歩に出かけました。初夏の街を歩いていて、目にしたのは咲いた花と木の枝に活発に生えてきた新緑でした。その時、私の脳裏に「生命」という文字が鮮明に現れました。師父が顕してくださったと分かり、私は心の中で「師父、申し訳ございませんでした!」と言いました。

 師父は新しい説法の中で明白に教わりました。「修煉、修煉といつも皆言っていますが、修煉とは何でしょうか? 実はその本当の意味が分かる人はほとんどいません。修煉とは、生命を成就させるということです」[4]  。「師父はすでにはっきり教えてくださった」と私は自分に言い聞かせましたが、その疑問はまだ時々出てきます。このまま法を信じない状態になると旧勢力に命を取られると分かっていました。

 私はとうとう明確に一念を発しました。「それらの疑問や戸惑いは私のものでなく、あなた達のものだ。これから私を妨害しようとすれば、魔として私の功にすべて解体される!」。強い正念は大きな力になり、大法を信じる本性が主導になったので、それから私を悩ませたり、戸惑いや訳の分からない悲しみなどの消極的な物質は完全に消え去りました。

 正念は修煉によって強くなるものです。私は今でも覚えていますが、修煉し始めた頃のある日、座禅中にいろいろな雑念が湧いてきて、どうしても入静できない時に、突然、空から師父の威厳な声が聞こえてきました。「主意識を強くもつべし!」 。私の全身が震え上がり、瞬時に雑念を抑え込みました。

 またある時期、私は周りの人や物事に対して嫌になり、ネガティブでやる気もなくなりました。そんな時、私は自分に「師父のみ、法のみ」と定めました。大変つらかったのですが、ちょうどその時に、ある同修と知り合って互いに交流することができました。特に彼女の修煉体験を聞き、私も発正念を重視するようになりました。私は心を静めて発正念し、自分の空間場を清めました。たった15分でしたが、ごく小さな一つの黒い玉、一つの黒い玉の物質が、皮膚の毛穴から出て散ったように感じ、全身が一気に軽くなりました。この体験から真の自分と外来の妨害を見分けることは、いかに大事なのかが分かりました。

 しかし、もう一つの強い業力、つまり思想業が人を騙すことはよくあり、私にも経験があります。何かを考える時、往々にして自分自身が考えていると思いますが、実は思想業に左右されて紛らわしい状況に陥ります。その思想業を滅するため、私は師父の法「主意識を強くもつべし」を暗唱すると同時に、発正念を強めました。翌日グループ学法をする時に、2人の年配の同修が私を挟んで左右に座り、おしゃべりしながら手荷物を整理し始め、ビニール袋の音がガサガサとかなり大きかったですが、不思議なことに、発正念をしていた私はそれに左右されず、逆に突然入静し、周りの騒音と遮られたようでした。

 学法が終わって家に帰る途中も法を暗唱し、寝るまで暗唱し続けました。「しかしほとんどの人は強い主観思想(主意識)を持って、それを排除し、それに対抗することができます」[2]  。ここまで暗唱した時、突然ある声がはっきり聞こえました。「それでいい!」 。私はびっくりしました。私の声ではなく、男性の声が私の頭の中から発したのです。その声は老けた声で、しかも恐怖心とずるさ、それに仕方がないような複雑な感情が混じった声でした。私は落ち着いて考えました。「そうだ、これは思想業だ、とうとう我慢できず表に出てきたのだ。消滅したかったのは正にこの思想業だ!」とはっきりとわかりました。私は寝るまで続けて法を暗唱し続けました。思想業は一つの生命体として、私の空間場の中で私を制御しようとしている実態をはっきり捉えたのは、これが初めてでした。

 人間の肉体はこれほど弱く、知らず知らずのうちに、たくさんの良くないものに妨害されることを思い出すと恐ろしく感じました。主意識を強くもたなければとても困難です。その後、私は言葉の使い方などから主意識を強めました。例えば、「私の執着心」のような言葉を使わないようにしました。執着心は外来的な悪いもので、自分ではないからです。また、「病業の関門」も同じく、修煉者にとって病気が存在しないので、「病業の関門」もあるはずがなく、すべてが心性の関門だと思いました。「年配の同修、青年同修」などもできるだけ使いません。これらの言葉の中に人の観念が含まれていますので、気を付けなければ旧勢力の罠に陥る可能性があるからです。しかし、人間の観念に代わるものが見つかりにくいので、それらの観念にこたえず、否定するしかないと思います。修煉者にとって人間の立場か、法の立場か一念の差ですが、日々試されています。言うのは簡単ですが、師父は「做(な) すところ到(いた)るは是(こ)れ修なり」[5]  、と語られました。強い決意をしてから、私の修煉の状態もだいぶ良くなりました。

 ここまでの修煉を振り返ると、私は無条件で師を信じ、法を信じるとこがとても大事だと思います。師父の『論語』に書かれてある通り、「大法は創世主の智慧です。大法は天地を開闢(かいびゃく)し、宇宙を造化する根本であり、中に含まれるものは極めて洪大かつ細微で、異なる天体の次元にそれぞれの現われがあります」[6]

 以上は、私の修煉体験ですが、法に合っていないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「善を説く」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の説法:『米国東部法会での説法』
 [4] 李洪志師父の説法:『2018年ワシントンDC説法』
 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」
 [6] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「論語」

(2019年カナダ法会の交流文章)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/7/30/390682.html)
 
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