河北の武俊芳さん 迫害で4カ月半の胎児を流産
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 【明慧日本2019年11月1日】河北省邯鄲市光禄鎮中黄鼠村の法輪功学習者・武俊芳さん宅に、2008年5月、城南派出所の警官らと中黄鼠村の幹部らの計20人が屋根から家に侵入し、法輪功の真相資料と明慧週刊を押収し、姉と私を不当に派出所へ連行した。ここでは睡眠を許さず、警官らは姉の前で、窓の柵に手錠をかけた男性を殴った。その時私は部屋に吊るされ、人を殴る声と悲鳴が深夜から朝までずっと聞こえた。私と姉は恐怖におびえ、一夜を過ごした。次の日、私は妊娠していたため、邯鄲市の第二留置場は受け入れを拒否した。警官は家族に保証書(法輪功の修煉を放棄する約束)を書けと脅迫し、現金1000元(およそ1万5000円)を脅し取ってから、私達姉妹を解放した。

 2008年6月18日の午前、私の夫は騙されて城南派出所に軟禁された。その日の午後、私は成安県で危篤状態の父の世話をしていた。城南派出所の所長は仲間の警官と合流して、腕を乱暴に振りながら家の中に押し入り、私の3番目の姉とその子どもを脅迫した。そして子どもの目の前で、乱暴に私を家の外へ引きずり出し、馬頭地区の病院に連行した。その日の深夜0時頃、警官らは私を押し倒して、無理やり不明薬物入りの注射をされた。そして、病院のベッドの柵に手錠をかけられた際に、4カ月半の胎児が痛みで小さな手と脚を真っ直ぐ伸ばし、とても苦しんでいるのが見え、私は流産した。その後のことは覚えていない。まだ生まれてもいない胎児を殺すなんて、いったい警官らと医者の人間性はどうなっているのか! 派出所の副所長は、夫が面会に来たのを見て、夫を挑発するために私を叩いた。私は夫が重い足を引きずって歩くのを見た。私は夫がまた拷問を受けるのは我慢ならなかったので、説得して、夫を帰らせた。

酷刑演示:打毒针(注射不明药物)
拷問のイメージ写真:不明薬物を注射される

 6月26日、派出所の警官は私を邯鄲市の第二留置場に送り、収監した。7月6日、私は河北省女子労働教養所第4グループに送られ、そこで2年間の不当な強制労働を科された。その晩、保証書にサインすることを拒否したため、警官がすぐに私と辛集市の法輪功学習者・方華さんの2人に手錠をかけた。手錠はとてもきつく、次の日には手と腕が赤く腫れ上がった。

 8月8日、労働教養所で、警官は私たちにオリンピックの開会式を見るためにホールに集まるよう強制した。警官の不気味で恐ろしい叫び声が響き渡る中で、開会式が行なわれた。

 旧暦9月、労働教養所の規定で勝手に便所に行くことを禁止し、決まった時間帯が定められた。しかしその後、警官は随時に便所に行く時間を制限した。受刑者達はいつも身体に冷や汗をかいたり、熱気を帯びたりするまでトイレに行くのを我慢し、ご飯を満腹になるまで食べられず、少しのご飯で、毎日10時間以上の労働をさせられた。ある人はいつも宿舎にあるタライで用を足した後、こっそりと捨てていた。このことが警官に見つかれば、ひどく罰せられる。私はある時、時間内に用を足し終わらなかったので、小隊長・呉燕玲の罵声を浴びて平手打ちをされ、すぐさま罰として、2、3時間ずっと立たされた。同じ監房の方華さんは、長時間の尿意の我慢により、自力で排便することが出来なくなり、意識不明になり、片脚は木のように太くてもう片脚は細く、身体障害者の状態になった。それでも隊長の趙媛は、方華さんが本当に意識不明なのかを確かめるため、人中(生き返りの効果があるツボ)を押した。その後、方華さんは外の病院で排尿の治療を受けた。しかし2、3日後戻って来てからロビーで、また方華さんはスタンガンで痛めつけられ、あの時に意識不明を装っていたと認めるよう脅迫され、医療費を差し引かれた。

 真冬に窓を開けて扇風機をつけ、部屋の中はいつも寒々とし、この監房の人達はいつもお風呂に入ることも、服を着替えることも、生理用品、トイレットペーパーを使うことさえも許されなかった。

 2008年末頃、私は強制労働に対してあらがったため、大隊長・劉艶敏に両手ともひっくり返されて手錠をかけられ、スタンガンと一寸(3センチ)の厚みのある本で顔を叩かれた。また、爪の先で身体や腕、顔をつねられ、顔と身体に多くのアザやうっ血の跡ができ、地面の上に直に座らされた。大隊長・丛淑娟は、私の両手を後ろ手に手錠をかけ、力いっぱい私の両手を上にひっぱり上げたので、私は肩が断裂するような激痛を感じた。さらに劉艶敏は、靴の尖ったヒールで私の太腿や脚を踏みつけたため、私は何カ月もの間、歩くことも困難になった。労働教養所では中国中央電視台を見るように強制された。また、残業を強いられ、その内容は割り箸を袋に詰めたり、広告のチラシを折ったり、農薬表示のラベルを数えたり、ホテルの紙袋、経口液剤や医薬品の蓋を作ったり、年越しの頃には贈り物である赤い提灯と野菜の包装、それに野菜を栽培させられた。

 2001年1月24日、私の3番目の姉夫婦が不当に連行され、年越しは、60、70歳の父と3人の子どもだけが家の中に取り残された。本来、家族団らんの楽しい日であるはずの新年は、この上なく悲惨なものになった。そして春、耕されていない1畝(99平方メートル)の農地は、私の上の子どもが学校を中退して、耕さなければなず、子どもは勉学の機会を失った。私の父は、私が連行された1カ月後に、私のことを憂慮したまま、この世を去った。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/10/26/394989.html)
 
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