【明慧日本2020年2月14日】
時間を無駄にせず、自分を正して衆生を救い済度する
中国は2020年の旧正月に伝染病を迎え、それぞれの省や市、区、通り、コミュニティで閉鎖、隔離が始まった。ひどい所では扉と窓を外から密封して閉じ込め、大通りにはほとんど人がいなくなった。大法弟子として、私はこの問題について皆さんと交流したいと思う。
一、大法弟子は衆生が救われる唯一の望みである
新型肺炎が発生した時、私は常人と一緒に行動を始めた。しかしまた、村や道路の閉鎖、地域の隔離、外出禁止などの情報が絶えず現れるのを見て、私は「大法弟子はすでに衆生が救われる唯一の希望となりました」[1] という師父の説かれたことを改めて考え始めた。
もし誰も外出することができないなら、私達はどのように真相を伝えるか、どのように同修と対面するか? これは旧勢力のもたらした障害で、私達は必ず突破しなければならない。そこで私は家族を説得し、同修と対面して交流を行なった。交流することによって、私達は「学習者として必ず旧勢力に制約されない、旧勢力に率いられ動かされて人心で物事を判断せず、いつでも私達は大法弟子で、衆生の救われる唯一の望みだとしっかり心に刻むべきだ。現在、中国の多数の人権弁護士は連行され、大胆に本当の話を言う人はほとんどおらず、学習者として私達は勇敢に向き合い、どのように改善するのかを常に自問自答する」と認識した。
二、大法弟子として人を救うのは私達の使命で、身体がどんな環境にいるかを問わない
何日かの観察を通して、私は世間のほとんどの人の感覚が麻痺し、共産党に対して感謝している状態だと見え、「この急性伝染病の爆発的な感染拡大は共産党による情報隠蔽と関係があり、善念も無く、ただ金を稼ぐことだけを考える私利私欲の本質と関係がある」と、はっきり世間の人が見分けるのは難しいのではないか、と考えた。 そこで私は真相の内容を異なる人に送り始めた。そこですぐに、私は身の周りにいる人がゆっくりとはっきりした状態になり、そしてそれが伝播するようになったことを発見した。中国共産党はこの時、ネットワークに対する監視と制御を停止していなかった。しかし私達は慈悲で、純粋で、人を助ける心だけで政治に参与せず、ただ純粋な善意さえ持っていれば、師父が按排された道を歩ければ、いかなる邪悪でも、何者も皆邪魔する資格がなく、邪魔されることはありえない。
三、私達の行為と観念は周囲の人に対して比較的大きな影響がある
私は「多くの同修が麻痺しており、どのようにやるかについて分かっておらず、邪悪を認め、常人に従い、常人の提案に従って外出せず、外部と接触しない。また、ある者は不平だらけで、はなはだしきに至っては、常人にさえ及ばない」と理解した。そのために、私はこの文書を出すことで、このような同修と交流したいと思う。
実は、私達はここまで修煉してきて、皆ある程度のエネルギーがあるので、言い出した言葉、やった事、はなはだしきに至っては、一思一念でも恐らく身の回りの人に対して、ある程度の効き目が現れるかもしれない。そのため、このような時にはここで冷静さを保たなければならず、大法弟子のやるべき事をうまくやらなければならない、と同修に提案する。大法弟子として、世間の人に真相を理解させ、それによって救われるようにすることは、私達の使命で、私達はどうして常人の提案に従って外出しないのか? どうして同修に会わないのか? どうして常人の考えで判断して、同修と意思疎通をし、交流しないのか?
提案:
1、いろいろな方法で法を実証し、真相を伝える方法を作って、常人と混同しないようにしてください。
2、この時、私達は冷静さを保たなければならないので、絶えず大法で自分の一思一念が学習者の基準に合っているかどうかをハカリにかけ、必ず常人と混同しないようにしっかりと覚えておいてください。
3、真相を伝えるときは、必ず内容、語気、善意に注意しなければならない、大げさに話してはいけないし、人心を混ぜないで、中国共産党に対する闘争心や報復心なども無くし、慈悲と正念で、「慈悲は天地の春を溶かし 正念は世中の人を救う可し」[2] の師父の教えに従う。
最後に私は強く言いたい。「私達は神様の使者で、衆生を救い済度しに来たのであり、決して、邪悪な宣伝を信用しないで、常人の考え方と同じにならず、混同しないでください。師父は『たとえどのような環境にあっても、邪悪の要求や命令、指図には従わないようにしてください』[3] と説かれています。ただただ、師父の按排された道だけを歩きます。これらの事を私達は直ちに悟り、師父の教えに従って実行し、そして成し遂げる必要があります!!」
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「正念」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「法正乾坤」
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「大法弟子の正念は威力あるものである」