【明慧日本2020年4月19日】(黒龍江省=明慧記者)黒龍江省佳木斯市(ジャムスし)華川県横頭山鎮の法輪功学習者・左秀文さん(69)は、中国共産党(以下、中共)が法輪功に対して盛んに中傷する環境の中で、法輪功を勉強し始めて病気が回復した。しかし、左さんは法輪功迫害の真相を人々に伝えたため、懲役3年6カ月の実刑判決を宣告され、入所した黒龍江省女子刑務所で非人道的なひどい拷問を受けた。
左さんは過去を振り返ってこのように語った。「良い人を目指しているだけなのに、刑務所で、法を犯した8人の道徳レベルの極めて低い人らに、一刻も離れずに監視された。 トイレに行く時にでも他人との接触を許されず、廊下やトイレに人がいなくなった時にしか行くことが出来なかった。自分もこの年齢だし、この過酷な環境の中で精神的にも肉体的にも大きなダメージを受け、常に痛みに苛(さいな)まれ、時には精神的に崩れそうになり、息さえできない状況であった」
以下は左秀文さんが述べた迫害を受けた経歴である。
法輪功を学び 死地の中で活路が開ける
私は左秀文で、華川県横頭山鎮に住んでいる。2002年、夫は脳出血を起こし、あちこちで治療したが、効果はなかった。夫のために法輪大法を学び始めた私は、2002年10月25日に正式に修煉に入った。
結婚してから夫はずっと優しくしてくれて、周りからも羨ましがられるような良い夫婦関係を築いていた。法輪功を学ぶ前に、仕事を休んで夫と一緒に田舎に行き、食料品の個人経営をすることにした。商売がうまくいっていたので、引き続きレストランも開業し、同時に40頭以上の豚を飼育して養豚業を営んだ。
すべてが順調だった当時、夫が突然に脳出血を起こして病院に運ばれた。夫が倒れた後、私にとってまるで天が崩れたかのように生命の支えを失い、経営もできなくなり、毎日の看病生活の中で、目が潰れるほど泣くばかりだった。2カ月間の入院で貯金をほとんど使い尽くしたが、夫は一向に良くならず昏睡状態のままであった。 仕方がなく退院し、それからあちこちへ治療に行ったが、それでも改善されなかった。
前途の希望が何も見えず、気持ちがとことんまで落ち込んだ時、隣の義姉が法輪功を紹介してくれた。夫は話すことが出来ないので、私が「法輪大法は素晴らしい」を傍で念じてあげたり、『轉法輪』を読み聞かせたりした。夫に読み聞かせているうちに、私はだんだんと李洪志先生の説法の法理がわかってきた。
その時、様々な病気にも悩まされていた私は、知らず知らずのうちに病気が消えて、その喜びは言葉では言い表せないものであった。
当時、中共による法輪功への迫害は相当厳しい時期だったが、法輪功の恩恵を受けた私は、良い功法だとわかり、最後まで学び続けることを決意した。
連行され、家宅捜索を受ける
2010年12月13日午前9時頃、家に来ていた学習者の宋慧蘭さん、劉鳳平さん、王丹さんと一緒に法輪功の書籍を勉強していた時、塀を乗り越えて入室した華川県公安局国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)と横頭山鎮派出所の警官らに連行され、家宅捜索を受けた。法輪功師父の写真、ノートパソコン、プリンター、DVDプレーヤー、コピー用紙、携帯電話、法輪功の資料などの多くの私有物が、押収された。
私は東側の部屋に飛び込んで師父の写真を取り戻したが、体格ががっちりとした警官に蹴られて、倒れそうになった。 最後に、私たち4人は華川県公安局に強制連行された。
その後、華川県裁判所は私に懲役3年6カ月の実刑判決を下し、王丹さんに懲役3年の実刑判決を下した。
後で知ったのだが、王丹さんの母親の劉鳳平さんは、労働教養2年を強いられ、宋慧蘭さんは湯原県留置場で、毒薬を注射されて身体に障害が現れた。
黒龍江女子刑務所の拷問は人間界の地獄であった
2011年6月15日、私たちは黒龍江省女子刑務所の第9監区に移送された。刑務所に入った途端に、すぐ荷物の検査が行なわれ、持って来た着替えなどの所持品はその場で全部捨てられた。
刑務所では毎朝5時に起床し、小さな腰掛けに座らされ、法輪功を誹謗中傷するビデオを強制的に見させられ、少しも体を動かすことが出来ず、下を向いて目を閉じたりすることも許されず、姿勢を正し、両手を膝の上にきちんと載せるように強制された。ちょっとでも動くと怒鳴りつけられ、毎日夜の11時まで座らされた。
長期にわたり座らされたためにお尻が潰爛し、耐えられないひどい痛みに襲われた。また、刑務所の規則を暗記するようにと強要されたが、拒否した。
私は労役をさせられた。毎日、列に並んで全身の検査を受けてから作業に出かけ、夜に帰るときも列に並んで検査を受けなければならなかった。ある日、他の法輪功学習者から手書きの経文を入手した。やっと経文を読めるので、嬉しくてたまらなかったが、経文を隠す場所がないため、一日中、ハラハラして落ち着くことが出来なかった。監禁の部屋は2、3日置きに検査が行なわれ、時々、作業している最中に突然笛が鳴り、順番に並んで検査される。
時には、つま楊枝と綿棒を作る作業もあり、私は1日せいぜい4、5パックしか出来ないが、毎日のノルマは1日9パックだった。
母親は他界し、家はメチャクチャに荒らされる
母は私と一緒に法輪功を学び始めた。私が連行されたため、母一人では精神的に大きなプレッシャーに耐えられず、私の身の安全を心配するあまり、2006年の末に他界した。
2013年、私は自由の身になった。刑務所から家に帰って目にした光景は、至る所が荒らされた様子であった。冷蔵庫の中は水だらけになり、庭の扉以外の倉庫のドア、各部屋のドアおよびすべての家具の扉は、道具でこじ開けられて荒らされていた。自転車、台車、ミシン、服、時計、宝飾品、寝具、調理用の鍋やフライパン、米、小麦粉、食用油などはすべて無くなっていた。