明慧法会|明慧ラジオ放送における修煉体験
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 【明慧日本2020年6月4日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は明慧ラジオ放送でいくつかの番組の制作に携わり、先日から、番組制作の協調を始めました。

 一、大法真相内容の音声データーを制作する中での体得

 最初の頃、私はただ原稿を読み上げるだけで、内容をしっかり理解しようとしませんでした。ある日、法輪功に迫害を加えた某高官の名前を知らなかったため、読み間違えてしまいました。音声の公開後、中国の同修から指摘を受けてすぐに訂正をしたものの、訂正前の音声データーがすでに暫く使用されており、良くない役割を果たしたのではないかと思うと、とても恥ずかしくなりました。

 またある日、迫害事実の録音をした際に、私はある女性学習者を「迫害により死亡した」としました。しかし当人は実際には死亡していませんでした。これも後日、中国の同修から指摘されました。明慧ネットの編集者も「放送前に、誰も原稿を審査しないのか」と言ってきました。二つのことから教訓を得て、それから私は迫害も事案の状況をしっかりと確認して、明慧ネットに載った文章に基づいて事案の発生期日、場所、いきさつなどをしっかり把握するようになりました。すると、その仕事の中で、「真」に修めていると実感しました。

 「三退」を勧める内容の音声データーを制作する際に、ニュース番組のような口調を変えてほしいという意見がありました。では、どのように自分の話し方をニュース放送の口調を、会話の口調に変えたら良いのかを考えました。師父の説法に、「皆さん考えてみてください。煉功もしない人が気功の本を書いているのです。現在の気功書はほとんど互いに写し合っています」[1] を思い出しました。今、自分は中国に向けて大法の真相電話をかけて実務経験を積み、その中から会話の口調を体験すべきだと悟りました。しばらく真相電話をかけて、経験豊富な同修から電話のかけ方や、どのように話す内容を事前に準備するのか、話す時にどのように表現するのかなどを学びました。その経験は、音声データーの制作にとても役に立ちました。

 私が協調人になってから、チーム全体で合計1600の音声データーを制作しました。今も、私は慎重に真剣に原稿を扱い、初期の頃のように原稿内容もチェックせずに、録音に進むことを二度とやっていません。もう一つ良い方法を探しました。つまり、出来上がった音声データーを携帯で再生し、そして携帯を自分の耳に当てて、自分が電話を受ける立場で音声データーを感じ取る方法です。このようにすると、聞く側として音声データーの欠点を発見しやすいのです。また、チーム内でダブルチェックを行ない、内容から音声までミスがないように徹底しました。編集者が伝えてくれたフィードバックをチームメンバーと共有して、同じミスが二度と起こらないように気を付けています。

 音声データーの制作は、私にとって修煉の過程そのものです。責任感を持たなければ、もらった原稿を内容確認もせずにそのまま読み上げたら完成できます。しかもそれは一番手っ取り早い方法です。しかしそのようなやり方は、責任を果たしていないやり方であると私は分かっています。

 音声データーの制作が遅れたら、音声データーがずっと掲載されていないのを見て、中国国内の同修は私たちに、「自分が書いた原稿は、良くないのではないか」など、反省のメールを送ってきたり、原稿を訂正して、もう一度送ってくるケースもあります。その時、私は自分の仕事の遅さに恐縮します。

 一方、中国国内の同修たちは、我々が制作した音声データーをどのように使用しているのでしょうか? 明慧ネットの記事によると、中国国内の大法弟子は悪天候にも関わらず、長時間に室外で移動しながら、大法の真相内容の音声データーを自分の携帯電話から発信する人、生活費を節約して電話カードや電話機を買う人、音声データーを再生してから衆生のフィードバックを根気よく聞く人もいて、使い方の分からない同修に教えるために奔走する人もいます。このような記事を読むと、自分は音声データーをしっかり作らないと申し訳ないと痛感しました。

 二、放送する中での体得

 修煉状態が自分の声に反映していると思うので、清浄な心でこの神聖な仕事に臨みたいと思っています。明慧ネットに発表された交流文章は佛、道、神の修煉過程を語ったもので、永遠に宇宙に残るものです。今、私は自分の音声で彼らの修煉物語を語っているのだと、これらの仕事を認識しています。佛像の絵を描くのと同じように、録音する中で原稿の作者や編集者、録音する人を含めて、その過程に参加するすべての修煉者の状態が番組を通じて反映されますので、大法の真相資料と同じなのです。

 チーム内のある同修は「自分の声がこの素敵な文章を汚さないことを望む」と言いました。私も同感です。師父は「皆さんはどこにおいても良い人になるべきなので、芸術という領域においても良い人になり、作品の中で美しいもの、正しいもの、純粋なもの、善なるものと光り輝くものを表現すべきです」[2] とおっしゃいました。私が作った作品である音声データーのでき具合は、表からみると技術によるもののようですが、本質からみるとそれは功の現れで、私の修煉が到達した次元の体現です。

 正統な美術について、師父は「美術創作研究会での説法」に何度も「正確さ」に言及されました。明慧ラジオ放送の仕事にも「正確さ」がとても重要だと思います。

 明慧ラジオ放送の仕事に責任感を持っているかどうかは、自身の不足点を発見できるか、それを直す努力をしたいかのところに現れてくると思います。例えば、自分が録音した音声にエコーが入り大きいと指摘された時、空っぽの部屋で録音するとエコーが大きくなりやすいと初めて知りました。そこで、私はベッドと寝具が置いてある小さい部屋で録音してみると、寝具などは音を吸収する効果があるため、望む通りににエコーが小さくなりました。それから、録音技術が分かる同修に録音する部屋の設置法を教わって、洋服ダンスに録音設備を運び入れ、周りに音を吸収してくれるスポンジを置いて、高品質のヘッドホンを買い、専門ソフトを使って音の処理の仕方を勉強しました。その同修は発音方法、ソフトの使い方なども教えてくれ、各種の質問に答えてくれて大変助かりました。おかげで、それ以後のラジオ放送の仕事を協調するために必要な技能を備えることが出来ました。

 三、ラジオ放送の仕事を協調する

 このように悟って正しいかどうか分かりませんが、自分の体は明慧ラジオ放送というプロジェクトの一部であると思っています。私にとって、それは重要な悟りです。明慧ラジオ放送は一つの生命です。私は明慧ラジオ放送のために努力しているとは思っていません。なぜなら、それは私自身だからです。

 協調の仕事を引き受けてから、責任を負わなければならないと認識しました。その中の一つの責任とは、チームの各メンバーに、それぞれの責任感を引き渡すことだと思います。

 協調をしてから、どのように仕事の能率を上げるかについていろいろ探りました。修煉者として最も簡単な方法は、正念を保つことだと思います。正念が保てれば効率はそれなりに上がっていきます。多くの場合、苛立たしくなったり、不満に思ったりするなど正しくない状態にいると、仕事はうまくいきません。もし、自分がしっかり正念を保っていれば、心は穏やかで、どんなマイナスの考えも私を邪魔することがで出来ません。そうすると、仕事を一件一件処理をする事ができ、疲れもさほどなく、漏れもなく、ミスもしなくなり能率が高くなります。

 説法の中に「入静できるのは功にほかならず、定力の深さは次元の現われです」[1] という言葉があります。仕事が多い時、忙しくなれば修煉者が持つべき穏やかさを失いがちで、その際は最もミスを犯しやすい時でもあり、あるいはチェック漏れが発生します。私も何回も経験しています。ある日、会社に勤務した時に時間がないため、同修に神韻の宣伝資料のいくつかの単語を直すように依頼しました。帰って来てから、私は大まかに目を通しただけで印刷工場に送りました。結局、一つの英単語のスペルが間違っていたことが発見されました。同修はうっかりしてミスをしたのですが、私が最終チェックをしっかりしておらず、責任は私にあります。以後、自ら作った資料であるかどうかに関わらず、私のところを通る資料であれば、いつも慎重にチェックするようになりました。

 後日、同じ神韻関連の資料について協調人が電話をかけてきて、私に最終チェックしてほしい、問題がなければ印刷工場に送ると言いました。当時、私はちょうど買い物の最中で気持ちが落ち着きませんでした。そこで、買い物を中止し座って自分を落ち着かせ、静かに資料をチェックしました。結局、公演時間の記載の1カ所にミスがあることを発見しました。これまでの数回のチェックでは、私も協調人もこのミスに気づきませんでした。

 師父は「本を出版するときの校正は非常に難しいことです。それが法だから、おまけに魔の妨害、人間の思想にある業力も邪魔しているので、非常に難しいのです。海賊版を作る人は学習者ではないので、このようなことをすればうまくできないかもしれません。昔、中国の正規の出版社によって出版されたとき、校正は全部学習者によって行なわれました」[3] とおっしゃいました。上記の神韻資料のミスは表面上のような簡単なことではなく、業力と魔の妨害からきたものだと思います。放送する時は、師父の経文の部分をとても厳粛に取り扱い、読み間違えたなら自分の修煉から原因を探して、「うっかり」という理由を軽々しく言いません。

 四、学法

 明慧ラジオ放送の仕事に携わってから、学法を以前よりしっかりするようになりました。毎朝みんなと一緒に『轉法輪』を一講読んで、夜、経文を45分間読んで、一日に一回『論語』を暗唱します。また、毎日『轉法輪』を3ページ、および『洪吟』の詩一つを暗記し、これまで2年6カ月続けてきました。毎週末に皆と一緒に煉功し集団学法をし、学法の時には、端正な姿勢と態度を保ちます。

 ある日、骨盤が突然痛くなり、原因が分からない激痛でした。その日の夜になって、まだ日課の『轉法輪』と『洪吟』の暗記をしていませんでした。私は痛みを気にせず床に座って暗記を始めました。15回も読んでやっと覚えた段落もあったのですが、私はイライラする心を放下して、一文字も間違えない程度まで暗記しようと決心しました。その段落をやっと完全に覚えた頃、ほっとしてトイレに行くと、いつの間にか骨盤の痛みがなくなっていることに気づきました。『精進要旨』「法を学ぶ」の中の言葉、「求めずともおのずから得る」[4]を体得し 、師父のおっしゃられた通りでした。

 師父に感謝いたします!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『美術創作研究会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『カナダ法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法を学ぶ」

(明慧20周年法会の交流原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/23/387623.html)
 
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