佳木斯市の董林桂さん 12年の冤罪で九死に一生を得る
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 【明慧日本2020年7月3日】黒竜江省佳木斯市(ジャムスし)の董林桂さんは、健康増進のために法輪功を学び始めた。その後、董さんは「真・善・忍」の基準に従って良い人になるように努力し、常に道徳心を高めていきながら毎日五式の動作を行ない、だんだんと多くの病気が治って性格も明るくなり、法輪功のおかげで新しい人生が開かれたように感じた。

 しかし、江沢民派は1999年7月から法輪功への迫害を開始し、法輪功の先生を誹謗中傷し、1億人もの法輪功学習者に対して弾圧を行なった。心身ともに受益した董さんは、法輪功から受けた恩義に背くわけには行かず、政府に正しく理解してもらうために、自ら法輪功の無実を訴えなければならないと思い、4回北京へ陳情に行ったことがある。そのため、董さんは4回連行され留置場に収容され、3年間の労働教養を強いられた。期間中、労働収容所の関係者は拷問で瀕死の状態の董さんを労働収容所の外に放り出して、立ち去った。

 2002年、董さんは懲役12年の実刑判決を宣告され、黒竜江女子刑務所でさらに非人道的なひどい拷問を受け、命を落とす寸前だった。

 以下は、董さんが自ら述べた残忍に迫害された経歴である。

 法輪功を学び、新たな人生が始まる

 私は董林桂という名前で、1949年8月16日の生まれである。1992年、夫が病気で亡くなった後、多額の借金を抱え住宅も持たず、赤貧な生活を過ごしていた。その当時は昼も夜も眠れず、人は何のために生きているのか?  人生の真諦は何なのか?  人間はなぜこんなに苦いのか?  運命とは何か? など、人生について思索した。

 夫の死に対する精神的なショックと生活の大変さで、脳動脈硬化症、冠動脈性心疾患、胆嚢炎、胆石、腎嚢炎、腎嚢腫、高血圧、関節炎、足の痛み、腰痛などの10種類以上の病気に見舞われた。しかし、生きるために毎日病気の身体を引きずって仕事をしなければならず、まさに天に向かって語っても何も答えてくれず、地に助けを求めても何の役にも立たない状況にあった。

 1995年4月26日、私は幸運にも『轉法輪』という本を手に入れ、待ちきれずに読んでみると、すぐに人生についての多くの道理や生きる意義が分かり、学ぶようになった。

 4回北京へ法輪功の真相を伝え、4回連行される

 1999年7.20に、江沢民は法輪功への迫害を発動した。それ以後、法輪功学習者達は連行され、殴られるなど狂気じみた迫害に直面し、迫害を制止するために北京へ陳情に行った。

 私も北京へ陳情に行き、天安門広場で「法輪大法は素晴らしい!」と叫び終わっていないうちに、パトカーに押し込まれて豊台グランドへ送られ、40度の暑さの中で一日中晒され、2日間殴られて拷問で苦しめられたが、食事も水も一切くれなかった。そこで、帰り道にすきを見て脱走した。

 まだ「法輪大法は素晴らしい!」を言い終わっておらず、まだ、願いを叶えていないため、再び北京に行った。天安門広場に着いた途端に、ひどく殴られてパトカーの中に押し込まれた。そして、地元に連れ戻されて佳木斯留置場に3カ月間拘禁された。そこでは鶏の餌を食べさせられ、トウモロコシの蒸しパンの中にネズミの糞をわざと多く入れられており、十数メートルのオンドルの上に30人以上が詰め込まれて寝ていた。そしてまた、殴られ罵られ、鼻から管を挿入されて無理やり灌食をされた。

酷刑演示:野蛮灌食(绘画)

拷問のイメージ図:鼻に管を挿入されて灌食される

 帰宅後、早起きして朝市で小物を売り、旅費を稼いで3回目北京に行った。北京で再度連行され、殴られ、佳木斯留置場に拘禁された。私は断食してこの迫害に抗議したため、胃にチューブを挿入され乱暴に灌食をされた。灌食をされた後にも関わらず管が一日中に胃の中に、鼻の中に挿し放しにされて大変辛かった。さらに、「大」の形で床に固定されたために、まったく身動きできず、その辛さは人間には耐えられないものであった。

 出所してから、私はまた早起きして夜遅くまで小物を売りに行き、家賃を払い、余ったお金を貯めて、4回目に北京に行くための旅費に使った。今回、天安門広場で「法輪大法は素晴らしい!」の横断幕を広げて、 「法輪大法は素晴らしい!」を叫び終わった時に、周囲の法輪功学習者の全員が連行され、私だけが取り残された。私はまた「真・善・忍は素晴らしい!」の横断幕を広げた。その時、7、8人の警官らが駆けつけて来て、私を取り囲んで暴力を振るった。暴力を受けたことによって、靴がどこかに飛んでいき、頭がぼんやりとした状態になり、地面の上で動けなくなった私を警官らは車の中に引きずり込んだ。

酷刑演示:毒打

拷問の再現:寄ってたかって、暴力を振るわれる

 当時、大勢の法輪功学習者が連行されたため、満車になった車は80キロ離れた派出所に向かった。ある警官は「すべての刑務所、労働収容所、留置場、派出所は全て満員だ」と言った。各地で拘束された法輪功学習者は誰も迫害に協力せず、名前を言わないという。そして夜中の12時に、河北省地区の荒野で私たちを解放した。警官は「そこは俺たちの管轄地域ではない、もう関係ない」と一言を残して立ち去った。

 私は4回も佳木斯留置場に拘禁され、苦しみを嘗め尽くした。ある日、拷問を受けて瀕死の状態になった。そこの関係者は責任を逃れるため、私を労働収容所に送った。労働収容所の関係者は中で死んだら責任を取らされるのではないかと恐れて、私を労働収容所の外に放り出して、車で逃げた。

 懲役12年を宣告され、黒竜江女子刑務所で苦しめられる

 2002年1月8日、朝起きてゴミ袋を出そうと思い外に出た。出す途中で頭を殴られ、理由も言われないまま警官らに連行された。そして、懲役12年の実刑判決を宣告された。

 その後、私は2002年9月2日に、黒竜江女子刑務所に拘禁された。昼間は訓練場で跳ねて歩くように強制され、跳ねないと電気棒で電気ショックを加えられ、12時間太陽の真下で晒された。夜は壁に面して「飛行機」と呼ばれる姿勢を保つように強いられ、毎日の睡眠時間はたったの2時間だけであった。

酷刑演示:开飞机

拷問の再現:「飛行機」の姿勢を保つように強制される

 その後、違う監区に移され、迫害がさらにひどくなった。 昼間は12時間太陽の下で走らされ、夜は「飛行機」の姿勢を強制され、昼夜問わず殴られて罵られ、「転向」を強要された。12日目になると、私は意識が朦朧として頭痛を伴い、居眠りして立っていられず、倒れそうになった。警官らはまたも私を独房に閉じ込めて、毎日無理やりに灌食をさせられた。

演示:关<span class='voca' kid='85'>小号</span>

拷問の再現:独房に閉じ込められる

 刑務所に入って1カ月になる頃の正午に、隊長・王亜麗は酔っ払った男性警官を呼び出し、私に自白を強要させた。男性警官は「お前を殴り殺すまではしないが、歯を数本落としてやる」と言い、大きな拳が私の頭に直撃した瞬間、私は意識を失って何もわからなくなった。気がつくと、数本の歯が抜け落ちてしまい、最後に8本の歯しか残されていなかった。午後6時頃に目が覚めると、「断食しているあいつがどのように死んだのか、モニター室で警官らは皆見ている」と受刑者の会話が微かに聞こえた。意識を取り戻した私を見て、殺人犯の受刑者は私を鉄の椅子に座らせ、弱り切った私が動かなくなったため、私の鼻と口をテープで巻きつけて窒息させようとした。それで私は気絶した。

 翌日、目が覚めて、自分が受刑者の病室にいることに気づいた。ある病人は「病室の中で人が死んだと皆は噂をした。あんたが生きているなんて、不思議だ!」と話かけてくれた。

 北東の厳しい冬の中で、敷物もなく8カ月間ずっとコンクリートの床に座っていた私は、冷えて腰痛と足の痛みの症状が出て、手足の痙攣の発作が起こった。 毎食、蒸しパンの半分しか供給してくれず、お腹が空いてゴロゴロと鳴り、痛めつけられた腰はまっすぐに出来なかった。入浴の時、盥(たらい)に冷たい水をいっぱいに入れ、ドアを開け放しにされ、北風が骨身を貫き骨と肉がともに痙攣したように感じた。

酷刑演示:吊铐

拷問の再現:吊るし上げられる

 2000年から2003年までの間、ほぼ独房で閉じ込められた。具体的な時間は覚えていないが、酒を注がれたことによって吐血したことがある。また、吊るし上げられ、長年ずっと手錠をかけられ、地面に固定してある輪に繋がれていた。もっと悪質だったのは、トウモロコシの粉の流動食を食べさせられたことである。つまり生のトウモロコシの粉をバケツに入れて、熱湯を加えるだけで生の状態のままで、その濃厚さはスープよりも薄いものであった。医学書によると、これを連続して60日食べると廃人になるという。私はそれを72日間も与えられ、そのために大量に便血し、消化機能や飲食する機能がすべて萎縮してしまい、時には吐血した。

酷刑演示:地环

拷問のイメージ図:地面に固定してある輪に繋がれる

 江沢民の「その名誉を腐らせ、その経済を断絶させ、その肉体を消滅させる」、「殺しても責任を負わず、自殺と見なす」という迫害の命令の下で、黒竜江女子刑務所の警官らが、刑務所内の受刑者を利用して、法輪功学習者を転向させたならボーナスポイントを与える環境の中で、拘禁されていた私に対する残酷な迫害は12年の間、毎日毎日続き、一日も緩められたことがなかった。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/6/26/408076.html)
 
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