【明慧日本2020年6月24日】(黒竜江省=明慧記者)黒竜江省ハルビン市双城区の法輪功学習者の万雲龍さんは、かつて3回も労働教養を強いられ、何度も連行されたことがある。この期間中に、万さんの妻・王麗群さんは酷い迫害により死亡した。中国共産党による長期にわたる残虐な迫害の下で、万さんは1日も平穏な生活を過ごすことができず、肉体的にも精神的にも想像を絶するほどの障害を受け、2020年5月20日に無念の思いを晴らせないまま死亡した。
法輪功を学び、新しい人生が始まる
万さんは1994年末に法輪功を学び始めた。法輪功に出会う前の万さんは冠状動脈性心疾患、不整脈、心停止、てんかん、胃潰瘍などの病気を患い、ひどく痩せて唇が紫色になり、頻繁に嘔吐して食事が摂れず、1カ月に2回も意識を失ったほど弱っていた。ハルビン医科大学第二病院の医師が「葬儀の覚悟をしておいて下さい。 どうしようもありません。残念なのは、本人がまだ若すぎることです」と家族に話したことがある。
当時、万さんはまだ37歳の若さだった。その後、ある親戚から「法輪功は健康を増進させる効果がある、と聞いたことがあり、試してみたらどうですか」と勧められた。 万さんはどうせ治療の望みがないと思い、点滴を抜いて飛行機に乗り、広州で開催される最終回の法輪功講習会に参加した。
李洪志先生の説法を聴いた万さんは、僅か半月の間、家に帰った時にまるで生まれ変わったように顔色が良くなり、紫色の唇も正常に戻って、物を食べられるようになり、だんだんと筋肉も付いてきて、身体のあらゆる症状が消えた。息子、夫、父親としての万さんは新たに人生の希望が見えてきて、家族の大黒柱であった万さんが立ち直った。
1回目の労働教養を強いられた際に、九死に一生を得る
1999年7.20から法輪功に対する前代未聞の迫害が始まった。1999年7月22日、双城地区の多くの法輪功学習者が省政府部門に行き、平和的に陳情活動を行なった。当時、古い学習者であった万さんも陳情活動に参加したが、地元の煉功拠点の担当者でもあるため、省政府部門から帰った後、すぐに連行された。万さんは重点的な迫害対象者とみなされ、留置場で6カ月間拘禁された後、2年の労働教養を強いられて、黒竜江省一面坡労働教養所に拘禁された。
一面坡労働教養所は採石場である。拘禁されている受刑者と法輪功学習者は、鉄の籠で重さが50キロ以上もある石を担いで列車に積むなどの仕事を強いられ、万さんの肩が擦り切れて骨が見えたほどの重労働を科せられた。その間、家族の委託を受けて面会に行った者は「この万雲龍は本当に口が堅い、拷問の器具を全部使って拷問しても、なおも、法輪功を学び続けると答えた」と警官が言った、と家族に報告した。
2000年4月29日午後、3人の警官らは石を積んだ二つの籠を重ねて、作業台から万さんの背中にめがけて投げ落とした。その直撃を受けた万さんは悲鳴を上げ、負傷したが、警官は「投げたのではなく、お前の受け取り方が下手だからだ」と言った。
ここの採石場では、6月の暑さの中で皆がシャツ1枚だけで重労働をさせられ、しかも、食事は十分に供給されず、万さんの肩のさ骨が手当てもされず、出ているのが誰の目にもはっきりと見えた。さらに、警官らは万さんに水も飲まさずに重労働を強制するばかりで、一番大きな石を運ばせ、ちょっとでも運ぶのが遅くなると、ひどく蹴ったり殴ったりした。
2001年5月、万さんは九死に一生を得て帰宅でき、続けて法輪功を学ぶことによって身体が速やかに回復した。
二度目の労働教養を科され、迫害で虫の息となる
2001年10月、万さんは列車に乗って白城へ行く途中で、身分証がないため身辺検査を受けた。その際に法輪功の経文が発見され、5000元(およそ7万6000円)の所持金を押収され、長春労働収容所に6カ月間拘禁された。この期間中、万さんは口から管を挿し込まれて高濃度の塩水を3回も注がれ、拷問の「大掛」にかけられ、鉄の椅子に縛り付けられ、ひどく殴られたり蹴られたりして、失禁した。
それでも、万さんは自分の信仰を放棄しないため、さらに3年間の労働教養を科された。労働収容所で滅多打ちにされた万さんは、肉が骨から剥がれそうになり、残忍な拷問により苦しめられて心身ともに限界に達して、自殺まで考えたことがあるという。その上さらに、2002年5月に、警官らから大きくて重い土の袋を無理やり背負わされ、万さんは吐血した。その後、万さんの体調がますます衰えていき、朝陽溝労働教養所に移送された。
2003年にSARSが発生した当時、万さんはすでに話すことが出来ず、呼吸困難に陥り、1分間の心拍数も140回で、胸には水が溜まり心不全と診断された。労働教養所はこの責任を負うことを恐れ、「2時間以内に必ず出所するようにしなさい、死んでもこちらは責任を一切負わないから」と電話で家族に命令した。家族が万さんを迎えに行った時、警備室の警備員は「家の経済状況が厳しいのであれば、救急治療を断念した方がいいかもしれない。以前に出所した人でも、2万元(およそ30万円)をかけて治療しても助からず、結局は金が無駄になった」と言った。
家族は虫の息となった万さんを家に迎えた。最初、万さんは横になって法輪功の先生の説法を聴くことしが出来ず、数日後、壁にもたれて数分間座れるようになり、小さいスプーンで水を飲めるようになった。だんだんと本を持てるようになり、麺類を食べられるようになり、それから立って煉功も出来るようになり、3カ月後には回復した。
娘が恐喝され、妻は迫害により死亡
2006年、双城地区の公安局は学習者に対して新たな迫害を開始した。パトカーを毎日のように万さんの家の前にとめるので、万さんは仕方なく家を売却し、あちこちでアルバイトをして生活するようになった。
2006年9月29日午後、双城公安局の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)の警官らは、双城地区の法輪功学習者・賈俊傑さんの自宅に押し入り、賈さんが2階から転落して負傷したため、賈さんの母親・桑桂珍さんを連行した。その場にいた万さんの妻・王麗群さん(48)と娘の万美佳さんも、双城第二留置場に強制連行された。留置場の女性警官は王麗群さんに「娘の学業と人生がすべてここで台無しになる」と脅し続けた。
留置場で、警官らは窓のない密閉された部屋で娘の美佳さんに対して尋問を行ない、美佳さんを鉄製の柵の中に閉じ込めて、鉄の椅子に固定した。警官はわざと電気をつけずに4本の蝋燭をつけ、暗い不気味な雰囲気を作り、美佳さんに署名するように強制した。「お前達を逮捕した時に、その飛び降りた仲間は自ら飛び降りたのではなく、他の者に押されたのだ。俺たちの指示に従わなければ、パソコンを使って宣伝罪になるぞ」と脅かした。
尋問は4時間以上にも及んだ。王麗群さんは娘のことを心配し、午後からずっと落ち着くことができず、極度な緊張状態になった。娘が連れ戻されたのを見て安堵のため息をつき、直後に話せなくなり身体の異常が現れた。娘は「早く病院に連れて行きましょう」と言ったが、警官は「刑務所の医者の同意を得てもらわないと」と反対した。1時間後、刑務所の医者が来て「仁中」のツボを押さえたり、脇の下をつまんだりして、20分後に病院へ搬送したが、間もなく、王麗群さんは亡くなった。
三度目の労働教養で拷問を受ける
2011年11月13日、万さんは他の学習者の家に行って賠償法について尋ねたところ、黒竜江省公安庁、ハルビン市公安局および双城公安局の警官らにより連行され、ポケットに入っていた2300元(およそ3万5000円)の光熱代金を押収され、第一留置場に拘束された。
その後、2年の労働教養を科された万さんは、綏化労働教養所に移送された。家族が面会に行った時に、万さんの目尻に青アザがあり、普通に歩けず、話し声も小さいことに気づいた。そして、万さんが法輪功を放棄しないという理由で、電気棒で電気ショックを与えられ、吊るし上げられ、暴力を振るわれるなど、様々な方法で苦しめられたことが分かった。
その後、万さんは二度も呼吸困難に陥り、病院に運ばれて肺水腫と診断された。家族が何度も釈放されるように努力して、2013年4月25日に、やっと万さんは帰宅できた。
無念の思いを晴らせないまま死亡
2016年5月6日午後、十数人の警官らが万さんの臨時にいた住所で、万さんを連行し、法輪功の先生の写真、すべての大法書籍、パソコン2台、1万元(およそ15万円)以上の現金、電気スクーター、折りたたみ自転車などの多くの私物を押収した。
2016年5月20日頃、留置場に拘束された万さんは、胸が締め付けられるように感じ、普通に呼吸することができず、相前後して双城救急センターと結核病院に運ばれ、心不全、冠動脈疾患、胸積水と肺水腫と診断され、9日間にわたり緊急処置の注射を受けた。この間、家族との面会が許されなかったため、弁護士から聞いた話だが、「もう少しで死ぬところだった」と所長が言ったという。
家族は何度も交渉を重ねてようやく、危険な状態に晒された万さんを家まで迎えた。帰宅した万さんは、長期にわたり受けた拷問の痛手を忘れられず、常に恐怖感を覚え、自宅にいる勇気もなく、故郷を離れ、落ち着いた生活すらできなくなった。
その後、万さんの健康状態はますます悪化し、2020年5月20日、90歳近い父親を残して亡くなった。万さんの死を父親は悲しみ、嘆いた。
万さんの妹の万雲鳳さんは、2011年11月に連行された後、精神的に限界となり、この世を去った。万さんの母親の張貴琴さんは迫害の中で、いつも息子のことを心配し、打撃に耐えられず、亡くなった。