「善し悪しは人間の一念によるもの」についての悟り
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年8月14日】師父は「物事の善し悪しは人間の一念によるものだと今申しましたが、もし彼女が路上に倒れたまま、『もう駄目です。ここも駄目、そこも駄目だわ』と言ったならば、それで本当にあちこち骨折して、半身不随になっていたかも知れません」と説かれました。毎回この法を学ぶ時、私は何も考えずに、ただこのような大事に遭った時には、「大丈夫だ」と思えば、必ず「無事」になると思っています。

 あるとき、私は事故に遭いました。ひどい状態でしたが、心の中から強大な一念を発しました。「大丈夫! きっと大丈夫だ!」。結局、本当に大丈夫でした。どうして自分が大丈夫だと思えば、本当に大丈夫になったのでしょうか? 最近、師父の法について新たな認識がありました。

 「もう駄目だ」というのは人間の念で、「大丈夫だ」は、これは神の念だと思います。人間は車にぶつかるとあちこち骨折してしまいますが、これは人間の次元の法理に限定されています。人間が脆弱(ぜいじゃく)であるという理由は、人間の次元の法理が低いためです。人間はこの次元の法理の現れに符合しなければなりません。もしも車にぶつかり、何も起こらなかったなら、それは人間なのでしょうか? 本当に何も起こらなければ、人間の次元の状態に符合しなくなり、この次元の法理を破壊することになります。

 人間は車にぶつかると、「大丈夫だ」と思いもせず、かえって「もう駄目だ」と思うのです。人間の認識と知恵はこの次元に限定されています。車とぶつかることは、債務を返し悪縁を終わらせるためです。必ず怪我をします。さもなければ、どうやって業を返すのでしょうか? 何もなければ、それは天の理を破壊することになるのではないでしょうか?

 しかし、あなたが「大丈夫だ」と思いついたとき、それは人間の次元を超え、神の状態に達しています。よく考えてみてくだい。神は怪我をするでしょうか? あなたは人間の中にいますが、あなたが神の認識に達していれば、神はあちこち骨折しますか? 師父は「精神と物質は同一のものです」[2] と説かれました。人間の認識を超えたなら、大法の威力を現すことが出来ます。ならば、きっと「無事」になります。

 しかし、私達は大事に遭った時に「大丈夫だ」と思う一念は人間の念ではなく、神の念であるということを思いつかないでしょう。もし、病気や危険、或いは、他の大事に遭遇した時、心の中で「私は神だ、大丈夫だ!」とはっきりと認識できれば、そのとき、高い次元の法はさらに強い作用を発揮することが出来ます。それと同時に、人間の次元の法はあなたを制約する作用を自然にしなくなります。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『オーストラリア法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/12/20/378665.html)
 
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