「他人のため」と「私のため」
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文/河北省の大法弟子  

 【明慧日本2020年8月16日】最近、家族と「他人のため」と「私のため」という話題について話し合った時、私は多くの感慨がありました。大法弟子は使命があるため、どのように「他人のため」と「私のため」という問題を認識するかは、さらに重要になると思います。

 先日、家族と一緒に執着心について交流しました。家族の1人が、「他人のために生きている人なら、きっと人心や執着心も少ないはずです。なぜかというと、自分の心はすでに『他人のため』で占められているので、『私のため』の要素は少なくなって、自然に人心や執着心で占められている空間もなくなっているからです」と話しました。

 今、振り返ってみると、やはり、道理にかなっています。自分自身の修煉状態を例としてあげると、自分は家族の情に気を取られていた頃は、頭の中は家事や孫のことばかり考えていました。大法のことや、衆生を救い済度することで占められている空間が少なくなっており、そういう状態になっていることさえも、気づいていなかったのです。この時の自分は、身内のため(私のため)に生きており、「他人のため」(衆生)のために生きていないので、「私のため」の生命が存在する意義は狭い空間に限られています。

 「私のため」というのは、旧宇宙での生命の本質的な特徴です。大法弟子は旧宇宙と共に創造された生命なので、当然「私のため」の要素も持っています。修煉の過程で、少しずつ「私のため」の行為を抑えていく過程の中で更に進んでいくと、「まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」 [1] に達することによって純粋に「他人のため」の生命になります。

 「他人のため」に生きている生命は、宇宙と衆生を救い済度するという大きな目標と使命を持っており、宇宙と衆生の安危は、自分の存在する本当の意義と目的であるのです。一方、「私のため」に存在する生命は、心の中に自分の家庭や家族の情しか考えておらず、心は非常に狭いのです。

 「他人の為」という基準に達するためには、まず「自我」から飛び出し「自我」を取り除いて、「まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」[1] に達することは、とても難しいのです!

 師父は、「真に大法を修し 唯此れだけを大と為す 大法に同化し 他年必ずや成る」[2]と説かれました。私達は大法のためにやってきた生命なので、生命が存在する意義は大法のためしかないのです。大法がなければ、「大法弟子」という特別で偉大な称号も存在しなくなり、すべてもなくなります。真の大法弟子なら、常に大法を第一に考えるべきです!

 浅い認識なので、適当でないところがあれば、同修の指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性は漏れなし」
 [2] 李洪志師父の著作:『洪吟』「法を得る」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/8/10/410216.html)
 
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