自分は修煉者と心に刻む
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2020年8月18日】私は24歳の大法弟子です。祖母が1996年から大法修煉を始めており、その影響で僕は小さい時から大法の素晴らしさを知っていました。

 10歳の時、祖母から『轉法輪』をいただきました。当時、良い人になることしか分からず、本を繰り返して読んでも法理が分かりませんでした。2012年、16歳の時に僕は正式に修煉を始めました。その後、僕の影響で、母も修煉の道を歩み始めました。

 数年来、いつも心性の試練に見舞われていました。僕は内に向けて探すことがまったく分からない修煉の初心者でしたが、周りの同修の助けと師父のお導きにより、次第に成長しました。以下、心性の関を乗り越えた僕の体験を皆さんにお話しします。

 父は大法を認め、支持しています。私と母の修煉も応援し、大法の真相資料の作成も手伝ってくれています。

 数日前、父は僕を乗せて車で真相資料を作る材料を買いに行きました。途中、車には何の問題もありませんでした。そして電気街に到着すると、まもなく閉店時間でした。父は「お前は車の中で待っていなさい。材料を買って、すぐ戻って来る」と言って、1人で店に入りました。

 とても暑い日だったため、車の窓ガラスを下ろして車内で父を待ちました。父は買い物をしてすぐ戻って来ました。しかし出発しようとすると、車のエンジンがかかりません。父は苛立ち、「どこか触っただろう?」と怒鳴りました。僕は「窓ガラスを下ろしただけです。他はどこも触っていません」と言いました。しかし父は私を責め続け、「窓ガラスを下ろしたから、バッテリーがだめになったじゃないか」ととても不機嫌でした。

 とても悔しく思いました。しかし、前日に習った「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」[1]を思い出しました。僕は、これは心性の関だと理解し、「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[2]を思いだしました。すると、私は平静な気持ちになりました。父はまだしきりに文句を言っていましたが、僕は不平不満の気持ちが全くなくなりました。

 この時、父は突然「お前は不平不満に思うな」と言いました。師父は私に不平不満の気持ちを持ってはいけないと気付かせてくださったのです。師父は「皆さんもご存じのように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています。本当にそれができれば、あなたはもう羅漢の初級果位に達していることになります」[3]と説かれました。

 「不平不満を感じないだけではまだ足らない。父に感謝しなければならないのだ。なぜなら、父は心性を高めるいいチャンスを与えてくれたからだ」と僕は思いました。

 しばらくして車の修理業者は「バッテリーの問題ではありませんね」と言いました。

 家に帰る途中、父は「お前は今日、心性を高めたね。濡れ衣を着せられても、怒らなかった。車の故障をお前のせいにしてはいけなかった。悪かった」と謝りました。

 「自分の心性が高まれば、環境も変わる」と僕は体得しました。

 師父は「難しいのは、実際その点にほかなりません。人と人との間にトラブルが起きた時、そこに居合わせたわれわれがどうしても我慢できず、自分を煉功者として律することすらできないようでは、話になりません」[3]と説かれました。僕は心性を高める事の重要性を体得しました。正しくない状態に出遭ったならば、まず自分を探し、内に向けて探さなければなりません。まさしく師父がおっしゃった「あなたは功の変化にばかり夢中になって、心性の変化を重んじないかも知れませんが、心性の向上がなければ、全体的な変化はありえません」[3]の通りでした。

 自分を正せば、初めて向上することができ、初めて魔難を乗り超えることができるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「忍とは何か」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/27/409662.html)
 
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