文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年1月11日】新年を迎える際、僕は同修の店でアルバイトをしました。仕事を通して心性を高めるよい機会だと思いました。
ある日、仕事が終わり、床を掃いていると、後ろから騒がしい声が聞こえてきました。振り返って見ると、おばあさんが障害者と口論していました。僕はおばあさんに、「彼は障害者ですから、許してあげてください」と言い、そして、他の店員がおばあさんを店から出るように押しました。その時、脳裏に師父の法が浮かび、「彼らはお互いに債務を返済しており、口出しすべきではない」と、師父が気付かせてくださったと分かり、そこで、僕は仕事を片付け、そのまま帰宅しました。
翌日の朝、店に行くと、昨日のおばあさんがまたやって来ました。おばあさんは昨日の問題は解決しておらず、自分は殴られたので、白黒はっきりつけたいと非常に腹を立てていました。店の女主人はおばあさんを慰め、帰らせました。
しばらくして、おばあさんのご主人がやって来ました。ご主人は、「昨日、妻はここで殴られた。店の人は障害者を止めてくれなかった。それは障害者の責任ではなく、店の責任だ」と言い、そして、僕を指して、「お前が悪いのだ」と怒鳴りつけました。僕は一言も弁解せず、仕事を続けました。師父は法の中で「ですから、良いことにあっても、悪いことに遭っても、大法さえ修めていれば、全ては良いことです。これは揺るぎのないことです」[1]と説かれています。
おじいさんの言葉は非常にきつく、私は心が揺れ動き、言い返したいと思いましたが、師父の法がまた脳裏に表れ、「前世、僕はきっと彼らに借金があって、今返済しているのだ。昔、僕もきっと同じ態度で彼らを怒鳴っていただろう」と思い、すると、気持ちが落ち着いてきました。
3日目の朝、老夫婦がまたやって来ました。夫婦は大勢のお客さんの前で、とても汚い言葉で僕を怒鳴りつけました。僕は抑えきれず、弁解しようとしましたが、『轉法輪』第四講の「失と得」、「業力の転化」、「心性を向上させる」の法が繰り返し何度も頭に浮かんできました。再び気持ちが落ち着き、冷静になると、「彼らはこんな年になっても、まだ世間のちっぽけな利益を掴んで手放さず、なんと可哀そうな人だろう」と思うようになりました。
僕は心が動じず、それを師父がご覧になり、心性の関門を乗り越えたと判断されたのでしょうか。その後、あの老夫婦は再び怒鳴りに来ることはありません。たまに、老夫婦が店の前を通りかかり、私を無視したりしましたが、僕はいつも笑顔で、平然としています。
修煉をしていなければ、僕はここまで我慢することができなかったでしょう。しかし、今の僕は修煉者です。師父の法に基づいて行なうべきで、良い人、更に良い人になり、真の修煉者にならなければならないのです!
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』