男女が共に大法の仕事を行なうことは、適切なのか?
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文/中国の大法弟子 淨蓮 

 【明慧日本2020年8月20日】夫婦や家族を除いて、男女が共に大法の仕事を行なうことが適切なのかどうかについて、私にはこのような見解があります。たまに男女が共に協力し合って、大法の仕事を行なうことは不可能ではありませんが、どうしても男女が協力して行なわなければならないことであれば、傍に2人以上の同修がいれば2人だけにすることを避けたほうがいいと思います。そんなに人手が必要でなければ、毎回違う人と協力した方がいいのです。いつも同じ男女2人を一緒にしない方がいいのです。こうすることによって、情が生じにくくなり、人に誤解されることもなく、旧勢力に隙を乗じられることもなくなるのです。

 先日、地元の同修が警官に連行されましたが、それと関係があると思います。私が彼らと数回接触した中で、この面に関して彼らに問題があることに気付きました。その時、私は側面から男女の礼儀やマナーついて注意したほうがいいとそれだけを伝えましたが、次に会った時も、またこの点について話をしたいと思っていました。しかし、彼らと会う前に警官に連行されてしまいました。私は彼らが連行された後、同修から彼らの話を聞いたのですが、私は非常に後悔しました。なぜ彼らの問題に気づいた時、私は直接、同修たちに言わなかったのでしょうか? メンツを重んじる心、人を怒らせる心、相手に良くない印象を残すことを恐れる心、つまり、全部自己を守るという心です。大法に対して、同修に対して、私は責任を負えないと思ったからです。その時、自分の思ったことを口にしていれば、同修に善意的な注意を促すことになったでしょう。

 修煉は厳粛なことであり、私たちの言動は大法のイメージを代表するものであり「私たちは、大志を懐きながら細かいことに配慮し」 [1]、 時々刻々修煉者の基準で自分に要求しなければなりません。 私は常人の中で修煉しているため、常人の心を持っていますが、私たちは自分自身に高く要求しないければなりません。できるだけベストにやり遂げ、師父が私たちのために耐えてくださったことに、背いてはいけません。

 この文章を書いたのは、同修たちに注意喚起するためです。もし、同修がこの面の問題を抱えているのを見かけたら、私たちは必ず誠意をもって指摘するべきで、顧慮する心はいりません。私たちの出発点が善意であれば、大法や同修に対して責任を持つのであれば、彼らが喜ぶかどうか、受け入れるかどうかは別として、私たちは必ず指摘しなければなりません。現時点で、真の修煉者であるならば間違いなく内に向かって探すことになり、その時は受け入れられなくても、後から考えればわかるようになります。 これは、大法に対しても、自分自身に対しても責任をもつことになります。邪悪に隙に乗じられないように、全体を形成しなければなりません。みんなが大法に基づいて物事を考えることができれば、邪悪はもう何の仕業もできなくなるのです。

 合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「聖者」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/8/12/410355.html)
 
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