善を修めるなら、口を修めるべき
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年8月21日】先日、私は法を学んだ時、師父は「逆の角度から言えば、いつもほかの人に対する態度が悪いのです。大法弟子は善を修めており、ほかの学習者はあなたより修煉が良くできているから、善をもって接する必要がないとでも思っているのですか? あなたは相手の次元を高く見すぎていませんか? 相手が迫害に加担した人、騙されて悪人の仲間に入った人でさえ、善をもって接するべきなのに、あなたと同じ学習者に、なぜ善をもって接することができないのでしょうか? 彼も師父の弟子であり、あなたは分かっていますか?(拍手) 相手にきつい言葉を掛けたとき、あなたはそのとき、魔と同じだと思いもよらなかったのですか? 魔ではなく、その状態を言っているのです。いつもこのようであれば、常に魔と同じ状態であれば、あなたは魔の道に向かって修めるのですか? いつまでたっても不機嫌そうな顔をして、そのうえずる賢く行動しており、あなたはどういう状態ですか? 神は全部、見ていますよ」[1] と説かれました。

 師父の説かれたこの法の内容は私を揺り動かしました。この法の中の「善」という文字が急に大きく目立ってきました。特に「善」という文字の下にある「口」という文字がもっと目立っています。私はなるほど、善を修めるなら、「口」を修めるべきであると、はっと分かりました。この「善」という文字の中には「口」という文字があります。 昔の人はよく「徳を積もう 」、「焦っている時に、言葉を選ばず何でもしゃべれば害が生じる」と説いていましたが、修煉者であるならば話をするときに、もっと穏やかに話すべきではないでしょうか?

 夜、私は師父の経文『精進要旨』の「善を説く」を学んだ時、師父は「大法は圓容しており、真・善・忍の三字を分けても、同様に、真・善・忍の特性を充分そなえています。なぜなら物質はミクロの物質から構成されたもので、しかも、ミクロの物質はまた、さらにミクロの物質から構成されており、ずっと尽きるところまで至るからです。ですから、真も、真・善・忍から構成され、善も、真・善・忍から構成され、忍も同様に、真・善・忍から構成されているのです。道家は真を修めていますが、これも、真・善・忍を修めているのではありませんか。佛家は善を修めていますが、これも、真・善・忍を修めているのではありませんか。実は、ただ表面の形式が違うだけなのです」と説かれました。

 この時、私は少し悟りました。私達は世の人々に法輪功への迫害の実態を伝えるとき、やはり常人の受け入れ能力や好みによって伝えていますが、まさか修煉者の間で、善なんか必要ないのでしょうか? 以前、私は同修に注意を促すとき、「真」だけを修めていました。相手が受け入れられるかどうか、相手の気持ちはどうなのかを考えたこともありませんでした。その時、自分の心理状態は慈悲なのでしょうか、和やかなのでょうか。ただ「真」の中の誠実さと率直さを言葉で表現しただけでした。 これでは、相手により良く「善」を進める効果がなく、返って、逆効果の場合もあります。

 修煉者が交流するとき、要点をストレートに話すタイプの人や言いたい放題のタイプの人、その場の区別がつかないタイプの人など、様々なタイプの同修がいます。うわべからみると、まるで相手の味方をしているかのように振る舞い、声が高くて口調が重く、話を繰り返す傾向があります。相手の弱点を掴んで、あちこちに誰々のこれはダメだ、あれもダメだと言い出し、そして闘争心と嫉妬心に満ち溢れ、恨みや非難、不平不満などが入り混じったもの全てを話し出しました。甚だしい場合には、手のジェスチャーまでも中国共産党文化の仕草そっくりであり、表情も憎々しげです。特に相手が何の反応もない場合には、プリプリと腹を立てるようになり、心の中で「私はこんなにあなたを助けているのに、あなたはまだそれを認識しないのですか?」と考えています。

 実際にもう少し深く掘り下げてみると、この表面的な助けは、「私」のために利己的な基礎に基づいています。これも「私」の一種であり、本当に真心で相手のために思うのではなく、ただ自分の時間や学法や交流、向上、圓満成就などが相手に影響されたのです。自分の考えの中で「私はあなたにこうしてきたのに、あなたはまだこんな状態なのですか?」とか、「私はあなたをこんなにも助けてきたのに、あなたはまだ変わっていない」という考えは、すべて「私」という言葉を強調しています。 多くの「我」から始まった言葉や行いが「私(し)」を優先にしているように感じました。なぜ相手の心を動かせないのでしょうか? それはつまり、「私」と「我」が 良くない作用を果たしていたからです。

 もう一つ、ある普遍的に存在している、真に善を修めるのではない現象があります。それは家族以外の人にはとても優しくして、家族だからといって言い方がぞんざいになったり、態度も粗暴で道理をわきまえない場合があるのです。これでは「善」とは言えないのです。

 ですから「真」を修めるのならば、「真」の中で善良な心をも修めるべきです。人と話す時は落ち着いた語気と適切な口調、優しい声で話すことで心に響くようになり、相手に良い気持ちをもたらすことができます。善い心、善い念、良い言葉で相手と優しく接すれば、多くの衆生を救い済度することができると思います。

 適切でないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「善を説く」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/12/17/357989.html)
 
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