文/中国の大法弟子
同じ事がほかにもありました。向かいの家に新しい隣人が引っ越して来ました。隣人はいつも生ごみを玄関の外(廊下)に置き、ごみ袋から汚水がこぼれ、廊下を汚くしました。最初の頃、ごみ袋を持って行かれると、私はモップで廊下をきれいに拭き、隣人が気をつけて直してほしいと思いました。しかし、隣人は直すどころか、もっとひどいことに、ごみだけでなく、煙草の吸殻や割れたガラスの破片も廊下に散らかしました。隣人の迷惑行為に不満な気持ちでいっぱいでしたが、どうすることも出来ず、大変困りました。
ちょうどその時、偶然に同修の文章を読みました。文には「本当に100パーセント師と法を信じていれば、いかなる問題も起きないし、いかなる問題も乗り越えられる。トラブルを起こす人は、往々にして師と法を信じることに問題がある。一部の人は精進して強い信念を持っているように見えても、それは人に見せるためのものにすぎず、人間のいかなる心理も神の目をごまかすことはできない」、「本当に善を尽くすことが出来れば、迫害があっても危険がない。加害する人すら密かに守ってくれ、神も称賛するからだ」、「大法の要求通りに実行できれば、奇跡が起きる」等と書かれていました。
私は大法弟子です。師と法を信じ、真・善・忍に基づいて着実に修めなければなりません。修めるとは人心を修め、善を修め、善を尽くして、無私無我になるように修めることです。心の中に少しでも私(し)があれば、それは善ではありません。
師父は「各地の輔導站の責任者の仕事のやり方について、少し言わなければならない時がきました。研究会からの指示を執行することは正しいものの、その方法を考えなければいけません。わたしがいつも言っているように、ある人が他人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る話は相手に涙を流させるのです」[1]と説かれました。
私は「プライド」を放下し、隣人が玄関の外に散乱したごみをごみ袋に入れ、下のごみ捨て場に持って行きました。そして、廊下に散らかった煙草の吸殻やガラスの破片を掃除し、モップできれいに拭きました。純粋な気持ちで不平も不満もありませんでした。これは私の関門です。必ず乗り越えなければなりません。
師父は「すべてのことには因縁関係があります」[2]と説かれました。以前相手に借りがあったから、今、相手は私に債務返済を求めています。私は無条件で返済しなければなりません。
この時、兄の医療費を払ったことを思い出して恥ずかしく思いました。どうして返してくれないかもしれないと心配したのでしょうか? 兄が入院して大変つらく、慰めや励ましが最も必要な時、心理的な負担を少しもかけてはいけない時、私は自ら「お金が必要ですか」と聞くべきだったのではないでしょうか? どうして兄が頼んでくるまで待ったのか? と思うと、私は涙を流しました。自分の汚い人心を恥ずかしく感じ、兄に謝りたいと思いました。
買い物の帰りに、隣人に会いました。彼女は初めて笑顔で挨拶してくれました。そして、ごみ袋を持って階段を下りて行きました。家に入ると、兄から電話があり、嬉しそうにいろいろ話をしてくれました。私に謝ろうとしている兄の気持ちが伝わりました。それは兄のいつもやり方ですから。
それは皆からの暖かいメッセージでした。私が発した善意に対する返事でした。その善意は太陽のように、彼らの心の曇りを追い払ってくれたのです。
人に優しくすることは、自分に優しくすることです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「はっきりと目覚めよ」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』