精進を妨げる根本原因を見つける
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2020年8月23日】二十数年間修煉していて、自分を振り返って見ると、感慨深いものがあります。修煉の道で、私はつまずきながら、今に至り、ようやく幾度も妨げられた根本的な原因を見極めることが出来ました。

 私は若い時、就職して間もなく修煉を始めました。実に幸運な事でした。常人社会で、私は頭の回転が速く、機転が利く人間でした。常に自分の悟性が良いことを誇示していました。

 しかし、ここ数年、自分が失敗して転んだことは周囲の同修よりもずっと多いのです。修煉において、私は学法をずっと重要視してきました。しかし、学んだ法を素早く理解して、勇猛邁進出来たのはたった二つの時期だけでした。一つは7.20の前でした。もう一つは2006年前後の時期でした。この二つの時期を思い起こせば、両方とも自分は修煉の落伍者だと感じていた時期でした。従って、その時期はコツコツと法を学びました。法を前にして、自我を捨てて学法して、初めて良い効果が得られたのでした。

 自分の心より魔が生じ、自我に執着することは、精進ができなかった根本だと知っていましたが、しかし、これらの物質を私の空間場からとり除くことは出来ませんでした。これらの物質の存在を知っていても、はっきり捉えて、取り除きませんでした。なぜなら、これらの物質をはっきり認識するためには、工夫を凝らさなければならないからです。

 最近、師父が新しい経文の『再び棒喝』を発表されました。経文を拝見して、まるで自分の耳元で師父が諭されているようでした。敬う気持ちと同時に心苦しい気持ちでいっぱいでした。

 長い間、私は幾つかの問題に惑わされていました。自分は大きなことを成し遂げたい、絶え間なく向上していきたい、物事を積極的に取り込むだけでなく、衆生を救いたいと言う願望の強い人間です。それは良いことですが、しかし、この過程に於いて、自分はある誤った思惟に妨げられました。私は物事のうわべだけを動かし、その見映えや効果を重くみることに走ってしまったことに気付きました。

 その結果が自分の意に沿わなければ、非常に焦ります。時には、自分の資源を使い尽くすまで、局面を打開しようとして、僅かな希望の中に希望を探すのです。物事の成功と失敗の中で、私の心は浮き沈みし、それによって、引き入れられ、常人の思惟方式に陥って、自分を見失ってしまうのです。

 その過程の中で、いざ常人の思惟に陥り、常人の方法を用いて努力することが長引いていると、実はすでに法に沿っていない状態にいるのです。これは「仕事をする心」だと分かりました。仕事をする心に伴い、私はたくさん転び、自分の修煉の道は非常に歩きずらく平坦ではありませんでした。

 曾て、やりたいことをやり遂げたので、自分には悔いがないと考えていました。しかし、今、私は自分の思惟が法に則っていなかったため、多くの事を行なっても実践がなかったことが分かりました。もう一つ大きな原因は、自分の思惟は生命が持つ根本的な執着に動かされていたことです。すなわち、自我の要素、功名を求める要素、およびしたいことをどうしても成し遂げたい要素です。修煉が一定のレベルに達した時に、それらの要素に魔性が含まれていることに気付くことが出来るのです。

 これらの要素が分厚く自分の空間場に立ち込めているため、自分の考えは定まっておらず、清浄さを保つことができず、真の自分を見つけることができなかったのです。このような状況下で法を学んでも、法との間に一つの隔たりが存在している様に、本当の法を学ぶことが出来ません。

 今、私は修煉の中の道理を少し分かるようになりました。自分の修煉の道において、学法して精進できた時期があったのは、真に自我を無くして、日増しに精進できる基礎が形成されたからです。あの頃、修煉者として、実に非常に大きな威力がありました。修煉者の威力を持っていたため、物事を見事に成し遂げることが出来ました。今振り返れば、あの頃は全てにおいて優れていて、法を実証することも力強く、各方面においても心性は高かったと感じました。

 しかし、大きなことを成すことに執着していた時期は往々にして法に則っていなかったのです。なぜなら、自我がでてきて、次第に魔性が仕事をする心について顕れます。どのように行なっても、困難が多かったのでした。外在する原因ではなく、自分の内部の要素がもたらしたものです。

 修煉の中で、大きなことを行なっても、目立たない平凡なことを行なっても、執着してはならないと今わかりました。師父の按排に従い、人為的に自分で重要なことを選んで行なってはなりません、自然に任せるのです。衆生を救い済度するこの肝心なこの時期に、真に法に沿っていれば、物事を如何に行なっても上手く力強く行なうことが出来ます。

 今回、内に向けて探し、自分の思惟が徐々に明確になってきたと感じ、混濁した物質が身体の内部から取り除かれたことがわかりました。以前の状態に戻ることが出来ると感じ、自分は自惚れる程の修煉者ではない、大きなことを成し遂げなければならない者でもないことがわかりました。心が清浄で無為の状態であることが、大法を修める中で超常的能力を生み出せる心性の基礎であり、この状態の下でより良く衆生を救い済度できるのです。

 個人的な見解ですので、不足があれば、同修のご叱正をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/8/3/409820.html)
 
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