苦しい半生、法を得て返本帰真の道を歩む
■ 印刷版
 

文/中国長春の大法弟子口述、同修整理

 【明慧日本2020年9月6日】

 苦しみに満ちた子供時代

 私は1953年に中国東北の長春市に近い田舎で生まれました。私の兄弟は7人です。私たち7人はトウモロコシ粉で作った米麺と山菜を食べて育ちました。学校に通っていた時は、靴を履かずに手に持って裸足で学校へ行き、学校に着いてから、初めて靴を履きました。

 弟の一人が小さいころ亡くなり、家から近い所に埋められました。山菜を掘りに行って、その辺を通る度に、私は怖くて、髪の毛が逆立ちました。小さいころ、私は(通常、人が見えない)いろいろなものが見えました。時々、白い服を着て彷徨っている霊を見ました。それが弟かどうかは分かりません。その後、私は変な病気に罹りました。昼の11時になると、熱が出ました。年寄りの人は、「マラリアの発作だ」と言いました。私は、病気のため、学校に行けなくなりました、学校に行くと頭が痛くてたまりませんでした。最後に仕方なく学校をやめた私は文盲になりました。

 今振り返って見ると、その時、恐らく取り付く場所がない弟の霊を怒らせたかと思っています。弟は小さいころに亡くなり、学校に行くことができず、苦しくて悔しかったのでしょう。

 不幸な婚姻

 私は18歳ごろ結婚しました。嫁ぎ先の結納は二組の布団でした。荒れ果てた藁ぶき家は、大雨になると、倒れそうで、外に出るしかありませんでした。生産隊(せいさんたい:農業生産に関する中国人民公社の基本的採算単位)の40世帯が纏めて私たちに贈った結婚のプレゼントは鐘(置時計)でした。中国では、年長者の葬儀を取り仕切ることを「送終」と言います。この「終」と「鐘」の中国語の発音は同じです。鐘を贈るという言葉は中国語で送鐘」と言います。「送鐘」と「送終」の発音は全く一緒なので、中国の伝統文化によって、鐘を贈るのはとても嫌われることです。結婚のプレゼントが「鐘」なので、私の婚姻は不吉なことを示していました。

 結婚してからも、私は夫から夫婦としての優しさや暖かさを感じることはなく、夫は子供に対しても、父親の責任を果たすことはありませんでした。彼は家に1元も持ち帰らず、服を買ってくれたこともありません。私は文字の読み書きができないので、県城での就職の機会を失いました。夫は1971年に、県城の購入販売協同組合に就職してから、ほとんど家に寄り付きませんでした。私はいつも、他の人から夫がまた女の人と浮気をしていると聞かされました。子供が1歳の時、夫は公然と女の人を連れて帰りました。夫は購入販売協同組合で、布を売っていますが、年末に組合からもらった飴や酒などを、その女は直接、夫からもらえますが、私の分は全然ありませんでした。冬に入ったばかりの時、田舎ではトウモロコシの茎を燃やしてご飯を作るので、時間がかかります。子供は楽しそうにご飯を待っていましたが、夫は機嫌が悪く、できたご飯を捨てました。夫は自分が流用した公金を返すため、私が苦労して育てた豚を売りました。

 嫁ぎ先は悪名高い憑き物に取りつかれていました。20年の結婚生活は、私に対する家族の数えきれない暴力と叱責の連続でした。私は小さいころから気が弱く、いつも逆境におとなしく従う性格でした。そのため、嫁ぎ先は、私を勝手に弄ったり、罵ったり、殴ったりしました。嫁ぎ先の家で、殴られるのはいつもの事であり、よく跪くまで殴られました。姑はいつも家の中で物を壊すことが多く、私に憑き物を取りつかせようとしていました。私は憑き物がたいへん嫌いでした。憑き物が病気を治せることを知っていても、嫌いで取りつかせたくもないし、そして憑き物でお金を儲けたくもありませんでした。

 嫁ぎ先の家で、唯一私を虐めない人は夫の3番目の妹です。彼女は非常に善良な人でした。姑が私のコートの襟を切っても、妹はそっとコートの襟を縫い付けてくれました。妹は1998年から大法を修煉していました。彼女は何度も逮捕され、殴打され、毒を飲まされ、判決を受けて、最後は迫害によって骨と皮になり、死ぬまで迫害されました。亡くなった時は、ちょうど年末の冬で、2羽のツバメが窓の所に降りて彼女を見送りました。中国の北方の冬なのに、ツバメがいるなんて!(冬になると、ツバメは中国の南方に行くので、中国の北の方に普通ツバメはいない)

 いつの日か、私も本を読み、大法弟子になることができるとは、夢にも思いませんでした。今世、遭遇したすべての苦難の根源は自分の業力であると分かりました。自分は純真善良の本性を失ってなかったから、神は私に大善大忍の心を与えて、私が大きな業力を消去することを按排しました。

 ある年、家の中に1元しかなかったので、子供が5分(1元=100分)ほしいと言っても、私は断りました。その時、私は姑と家の前に立っていました。30歳くらいの若者が私の家に向かって来ました。その若者が片方のズボンを上まで捲り上げると、その足は完全に爛れていました。彼は私に1元をくださいと懇願しました。姑は私をじっと見ていて、1元ですが、私の家の全部の貯金でした。私は彼の再三の願いに耐えられず、1元をその人にあげました。すると、姑の家族はまた狂ったように私を殴りました。

 修煉してから、それは神の試煉だと初めて分かりました。そのような環境でも、私は善良な本性を失わず、他人を助けました。

 初めて母親になり、その苦しさは誰にも言えない

 私は19歳の時、一番目の女の子を産みました。私の面倒を見る人がいないので、お腹が空いて我慢できなくて、庭のスモモの樹からスモモを取って食べました。産後の1カ月なのに、スモモを食べますか。だから歯と胃を損ないました。

 私は、草を敷いた床に二番目の子供を産みました。姑と夫は女の子だと見て、私に何も構いませんでした。(中国人は、男の子が欲しい気持ちが強い)。子供を産んでから3日目、私は裸足で野良に出て、豚の世話をし、草を刈り、瓜畑の手入れをしました。

 三番目の子供は息子でしたが、9カ月の妊娠で、ちょうど中国共産党が一人っ子政策を実施したところで、私は強制的に薬品で分娩を強要され、お腹は痛くてたまりませんでした。子供が産まれた時は、まだ生きていましたが殺されてしまいました。分娩の手術をした後、私の体は徹底的に壊れてしまいました。

 修煉した後、私は天目で、死んだ弟と息子が孤独にさまよう幽霊になって、食べ物も飲み物もなく、非常に苦しい境地に置かれているのを見ました。

 私の四度目のお産は息子でした。産後、病になって、体が痛くて動くことができませんでした。しかし、一人っ子政策のため、私はあちこちに隠れなければなりませんでした。子供が8歳の時、姑は私に離婚を無理強いしました。事務所の人は私に同情して、偽の離婚証明書を作りました。しかし姑はその偽離婚証明書を見て、印鑑がないと言って、事務所に戻らせ、本当に離婚させました。

 離婚後、一人で家庭の重荷を担う

 離婚証明書は発行しましたが、これは姑に見せるだけで、本当の意味の離婚ではないと思いました。嫁ぎ先の家族は地元から離れて長春市に雑貨を売るために行きました。前夫が手伝ってと言ってきたので、私は再び無料の労働力になりました。その後、私が病気で倒れると、前夫は他の女と結婚して、私を追い出そうとしました。私はすこしお金を頂戴と言うと、また意識がなくなるまで殴られて、耳が聞こえなくなりました。彼らは雑貨店を売り、私と3人の子供を捨てて去りました。

 このようなわけで、私は3人の子供を連れて長春市に下宿して、9年過ごしました。彼らが去った時、私は1元もありませんでした。私は姉に200元を借りてガスボンベを買って、家の古い鉄器を朝市で30元で売り、この30元で鉄製の調理用おたまを5個購入して販売すると、神の助けのようにすべて売れました。その後、いくつ仕入れてもすべて売ることができました。このようにして、私は何とか落ち着いて、子供との生活ができるようになりました。最初のころ、私は毎日手押車でおたまを仕入れましたが、その手押し車の車輪とフレームを前夫の姉の夫に盗まれました。仕方がないので、自転車で仕入れに行きました。25個の重い鉄のおたまと鍋蓋を自転車に掛けて、自転車に乗れないので、40里(20キロ)の距離を自転車を押して帰りました。私は歯を食いしばって頑張って歩きましたが、心の辛さは止められず、歩きながら涙が流れました。

 火災と災難が積み重なる

 1991年、私の借りた家の外で爆竹を鳴らしたために、火災を引き起こしました。私が家に飛び込んで、1万元を取って外に出ようとした時に、すでにドアが燃えていました。炎が一瞬で顔をおおったので、あわててて手を顔に振ると、顔の皮が剥がれました。病院に20日間入院しましたが、目が腫れて何も見えず、右目の横の肉は裏側が腐っていました。医者は足の太ももの裏側の皮を取って、顔に移植しようと勧めました。しかし私は再び肉を切る苦痛に耐えられないし、部屋から取りだした1万元もすでに使い切って7元の薬も買うこともできず、痛さを耐えるしかありませんでした。38歳の私は生きる勇気がなくなり、家に帰って子供たちに、「毒薬を餃子の中に入れて食べて自殺しよう」と相談すると、子供たちはまだ十数歳で、泣きながら死にたくないと言いました。

 長春人民広場の歩道街に、いつも火事で火傷をした乞食の人達がいます。私は自分の顔が彼らと同じように醜いと思いましたが、しかし今は私の顔に少しも火傷の痕跡や後遺症はなく、毛嚢も問題なく、眉毛の正常な成長も影響されていません。

 修煉した後、これは師父が私を救ってくださったと分かりました。師父のおかげで、私は顔を傷つけることを避けることができました。師父はずっと私を守り、いつも私の人生の一番辛い時、私を導いて、希望を与えてくださいました。

 私は3人の子供を連れて、スプーンの販売をしながら生活をしていましたが、いつも苦境に陥っていました。しかし、神の助けがいつも現れました。私が借りた家の家賃は80元です。ある日、私は30元しかなくて、残りの50元をどうしても出せないときに、急に風で50元が飛んできて、ちょうど私のスプーンの中に落ちました。

 1994年、私が41歳の時に、友達が私に酒が好きな人を紹介しました。その人はいつもわたしに纏わりついてきて、私はその人を避けるため、吉林省の兄の家の近くに部屋を借りて過ごしていました。次女は夫婦喧嘩をして、パジャマのままで私の所に来ました。その時、私は娘に服を買ってやるお金もありませんでした。私が借りた部屋は、柴を燃やしてご飯を作りますが、どこで柴が見つかりますか? しかし、いつも奇跡が現れます。私は大通りで2束の乾いたわらを見つけました。わらがあれば火を燃やすことができ、兄の奥さんが少し米を送ってきていたので、ご飯を作りました。しかし、その米は砂が多くて、食べる時口の中が砂だらけでした。

 乾いたわらを拾う時、私と娘は白いひげのお爺さんを見ました。そのお爺さんは横丁の所に一瞬、現れ、「どうやって住んでいるのか」と言って、消えました。私と娘がいくら探しても、そのお爺さんの姿は見つかりませんでした。横丁の入り口は一つしかなく、袋小路なので、普通消えることはないはずです。ではそのお爺さんは誰でしょうか? 修煉した後、師父だけが私を守ってくださるのではなく、多くの佛、道、神が私を見ていると分かりました。

 そのお爺さんは神様でしょうか? 同修は、「恐らく、あなたが大変苦しくて、神様も見るに忍びなかったのでしょう」と言いました。

 間違った道を歩み、憑き物を供養する

 苦難の人生について、私は心身ともに限界までに耐えていたので、精神がおかしくなっていました。兄の奥さんが私に狐黄白柳の憑き物に身を委ねるように強く勧めました。私は彼女の勧めに耐えられなくて狐黄白柳の憑き物に身を委ねました。しかし憑き物は人に害を与えます。師父は説法の中にすでにはっきり説明されました。中国の田舎は憑き物に身を委ねる人が多くて、人に害を与え、自分にも害を与えていました。憑き物にいったん身を委ねると、離れなくなり、人を苛んでいます。私は後悔して、身を委ねたくはなくても、送ることもできませんでした。私がその憑き物を送りだすと、その憑き物は私の足にこぶを作りました。病院に行くと、医者は「静脈瘤」だと言って、酷い時は足を切断する必要があると言いました。占い師の所に行くと、占い師は「あなたは間違った言葉を言いました」と言われ、足は徐々に治りました。その後、私は憑き物を操って、人の病気治療をやりました。

 大法の修煉に入る

 2004年、私の修煉の機縁がやっと来ました。ある日の朝、ある考えが私の頭の中に現れました。それは人の病気治療をやめて、「法輪功」を学びたいという考えでした。ずいぶん前に、前夫の三番目の妹が法輪功を修煉していたことを知っていますが、文字を知らない私は法輪功を修煉することを考えていませんでした。私はあちこちで大法の本を探して、私の近隣に法輪功を修煉している人がいると分かりました。私は嬉しくて、すぐ憑き物の位牌を捨てました。その憑き物は常人を操ることはできますが、佛や道、或いは神の小指の先の一捻りに耐えられません。常人は捨てることができませんが、真の大法の修煉者なら捨てることができます。私は天目で、その憑き物が若い男性に化けて、私の家の窓にうつ伏せになり、私が法の本を見る姿を見て、「あなたが怖い、あなたが怖い」と言いました。

 大法の本を得てから、夫は一文字一文字、私に教えてくれました。今の私は『明慧週刊』を見ることができ、三退名簿の名前も書くこともできました。これはすべて師父から賜った智慧です。私の今の夫はとても善良です。前夫の三番目の妹は法輪功を修煉するため迫害を受けて、警官に捕まるのを避けるため私の家に来ました。夫は何の文句も言いませんでした。そして大法の資料も守ることができます。一人が修煉したら、家族全員が利益を受けます。夫はすでに80歳を超えていますが、また背筋が伸びて、体が元気で、本当に福を得ました。師父は「人類は、大法のこの世での現われに対して、然るべき敬虔と尊重を体現することができれば、人々、民族、或いは国家に幸福や栄光をもたらすことでしょう。天体、宇宙、生命、万事万物が宇宙大法によって切り開かれたため、生命が大法から背離すれば、それは本当の堕落となります。世の人は、大法と一致することができれば本当の良い人であり、同時に善報、福寿を得ることができます」[1]と説かれました。

 私は約10日間、法の勉強してから、業力の消去が始まりました。9日間、私はずっと高熱がでて昏睡状態になり、家族は私を見てもうダメだと思っていました。私が姉にコーンスープが食べたいと言うと、家族はこの状態でコーンスープを食べられるのかと心配しながら作ってくれました。私はスープを食べ終わってから、「明日私は起きて床を拭きます」と言い、次の日、私は本当にベッドから降りて床を拭きました。床を拭き終わって、ベッドに横になりまた眠りました。昏睡の中で、私は天上から佛が来られたのを見ました。その佛は師父の法身です。また他の空間に蓮華座が至る所にあるという光景を見ました。師父は真ん中に座られて、東側の蓮華座はすでに満員になり、西の方はまだ空いていました。私は西の最初の所に座りました。続いて私は3種類の人を見ました。イスラム教徒、キリスト教徒、エホバの信徒など、私はエホバを信仰した人々の所に送られました。私に何を信仰しているかと聞く人がいます。私は「法輪功を信仰します」と答えました。私の夫、また夫の家族全員はエホバを信仰しています。私は若い時、清浄な修行に憧れていましたが、お寺に行ったら、頭がぼんやりして、なぜそのようになったか分かりませんでした。修煉したら、その原因が分かりました。今のお寺の中に、偽の佛、偽の和尚がたくさんいて、真に人を救い済度する神はいません。その時から、師父はすでに私を守ってくださっており、だからお寺に入って気分が良くないと感じていました。私は天上から降りて来て、師父と誓約があった大法弟子です。

 その後、私の体の病状はすべて消えました。今の私を見て、曾て合掌しても両手が痛くて耐えられない、重病人だったと思いますか?

 修煉の中で多くの奇跡が現れました。私は『轉法輪』の中に説かれたことをすべて体験しました。私は修煉し始めてから天目が開きました。師父の写真を供養する時、天目から香りが漂って来て、ご飯の茶碗が香炉に化けます。『轉法輪』を読む時、文字が膨らんできて、カラフルになります。同修の手作りのアクセサリーにも法輪があって、ピカピカ光っています。部屋の壁には他の空間の天の本がたくさんあります。坐禅する時、発正念をする時、神が真剣に大法弟子の毎日の言動を記録しているのをを見ました。私の煉功用の小さなMP3は、16年間ずっと使って、壊れたことがありません。同修は「この機種は市場ですでになくなりました。もし常人が使えば、ずっと前に壊れたでしょう」と言いました。万物には霊があります。この小さなMP3も生命が現れています。

 私は外で真相を伝える時、冷静で、理智的に行ない、極端に走りません。法輪功迫害の実態を伝えるとき、いつも自分がとても高いと感じ、路上の通行人がとても小さいと感じています。時々、他の空間の神が鞭で爛れた鬼や悪い神である黒い手を溝の中に追い出しているのを見ました。ある日、私は発正念をする時、天目で、一人の鬼が一群の人を連れて地獄に行きました。その人達は太鼓を叩き、赤い旗を掲げ、赤いネッカチーフを結ぶ人が居て、互いに競争して前(地獄)に進んでいます。時々発正念をする時、「滅」という文字を何度も念じると、大きな魔が倒れたのを見ました。

 長女は子宮筋腫のため手術をする必要がありました。私は彼女に「法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい」と念じるようにと言いました。彼女は検査する度に、その筋腫が小さくなり、3回目に検査した時、筋腫が消えました。長女は少し頭がふらふらして、ご飯も食べられず、眠れないという現象があり、私は師父にお願いして、発正念をすると、他の空間の彼女の体から一匹の大蛇が出てきて、1メートルの彎刀に細かく切り刻まれました。

 弟の嫁は私の母に親孝行をしません。弟の嫁が野良に出て働く時は、母を庭に閉じ込め、雨の時は、母を豚舎に追いこみ、わらぶき小屋を建てて、母をわらぶき小屋に住まわせていました。私は弟の嫁をずっと恨んでいました。それによって、私の体に問題が出て来ました。私は肉親の情と他人の恨みを放下すべきだと悟り、人と人の因果応報は世間で返す必要があり、業力は返さないといけません。この因縁関係は表面で認識できないのです。私が師父にお願いをすると、弟の嫁の体から四つの悪い物が落ちたのを見ました。最後に落ちたのはヒキガエルでした。その後、弟の嫁は変わって、母に優しくなりました。

 次女は男の子みたいで戦いが好きです。ある日、喧嘩をしたために、留置場に拘禁されました。留置場で年寄りの大法弟子を守って、正義の声を上げました。留置場から帰ってきた次女を見て、同修は「あなたの娘の顔が優しくなりました」と言いました。

 私は2004年から大法の修煉に入りました。法を正す時期の大法弟子の責任が重大であることを知っています。長年の艱難辛苦、寒さが来て暑さが去り、私は真相を伝え、衆生を救い済度して、どんな困難も私が衆生を救い済度することを止められません。私は自分の心性を厳しく律し、学法や煉功も怠けたことがありません。2018年11月5日に、師父は第二式の功法の煉功音楽の時間を1時間に伸ばされました。最初、私は本当に師父が発表されたのか疑って、その煉功音楽を使っていませんでした。18日に、本当に師父が発表された煉功音楽であることの確認を取って、私はすぐ1時間の第二式の功法の煉功音楽を使いました。そして、前の13日間煉功していない分も補い、大晦日(12月31日)にすべて補いました。正月の1日の朝、坐禅して入定したとき、空に姜子牙(きょうしが)が現れて、手に佛塵を持っているのを見ました。

 近年、他の空間の蓮華座がすでに満員になり、空席がなくなりました。おそらく大法弟子がすべての位置に着いたのでしょう。

 人間世界は波瀾万丈で、人は人生を通していろいろな苦を舐めます。私は自分の人生を振り返って見て、毎回絶体絶命の状況に面した時、道が開けました。もし師父の法身が守ってくださらなければ、おそらく私はこの世にもういないでしょう。

 16年の修煉の道で、世間の苦難は徐々に私を離れました。偉大な師父は、覚者の慈悲を通して、私の心の恨みを解き、弱い平凡な私を持ち上げて、真・善・忍の宇宙最高の法理で私の命を生まれ変わらせ、成就させ、この世で人を救い済度させておられます。

 師父に叩頭して合掌します。

 注:
  [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』「論語」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/6/5/406539.html)
 
関連文章