【明慧日本2020年9月8日】(河南省=明慧記者)河南省周口市の法輪功学習者・楊秀玲さんは7月9日、安徽省の実家に滞在中、同省界首市磚集郷の警官らにより連行され、今もなお不当に拘禁されている。
1999年7.20、中共(中国共産党)が法輪功を弾圧して以来、楊さんは自分の信念を守り、法輪功が迫害されている事実を人々に伝えたため、何度も連行され、二度の実刑判決を宣告された。計10年間にわたって刑務所で苦しめられ、重労働を強制された。
迫害が始まった当初、楊さんは2回北京へ行き、法輪功の無実と法輪功創始者の潔白を訴えた。そのため連行され、地元の沈丘留置場に戻されて拘禁された。2回とも、楊さんは高塀の中で新年を過ごした。
沈丘留置場で拘禁中のある日の深夜、沈丘県の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)の大隊長・盧峰は、楊さんに対して尋問を行った。楊さんが妥協せず指示に従わないため、盧峰は激怒して重拳で楊さんの頭を殴打した後、地面に転んだ楊さんをベルトで叩きつけた。また、楊さんは手錠と足かせを付けられたまま、留置場の周囲を何回も歩かされ、侮辱された。
楊さんが2回目に解放された時、姑は末期の肺がんで寝たきりになっていた。楊さんは自分の身体が衰弱しているにもかかわらず、他の兄弟と言い争うことなく、苦労を厭わず、毎日スプーンで少しずつ薬や食事を姑に食べさせ、排泄物の始末や姑の身体を清潔にするなど、2カ月以上にわたって最期まで優しく姑の世話をした。兄弟姉妹たちは皆感心し、義理の弟は自分の子供たちに「あんた達の伯母さん(楊さんのこと)は、この社会の中の一番いい人だね!」と言ったという。
夫の勤務先が周口市に移転したため、楊さん一家も同市に引っ越した。2002年10月、楊さんは住宅地で迫害の事態を伝えた際、不審者に通報され、同市の警官らに連行された。
楊さんは留置場で苦しめられた後、ようやく解放され帰宅した。その時、楊さんの息子に恋人ができて、しばらく付き合っていたが婚約には至らず別れた。しかし、楊さんの夫・劉国普が、女の子の母親(寡婦)と仲良くなり同居し始めた。最後に、夫の劉国普は「楊秀玲は法輪功を学んだため、夫婦関係が破綻した」ことを理由に、裁判所に訴訟を起こし、楊さんと離婚した。
離婚後、楊さんは収入源を失い、息子と娘はまだ家庭を築いておらず、80代の実母を扶養しなければならないため、生活は非常に苦しい窮地に陥った。そのため、楊さんは飲食店で洗い場のバイトをしたり、炎天下で果物を売ったりして、家族の生計を維持した。その間、より多くの人々に迫害の事態を知ってもらうため、楊さんは家の中を資料拠点として法輪功の資料を作り始めた。このことが元夫の劉国普に発覚し、夫は激怒して「通報する」と言いふらした。
2006年5月4日、沙北支局の国保の警官4人が、楊さんの自宅に侵入し、パソコン、プリンター、法輪功の資料などを押収し、楊さんを連行した。
周口市610弁公室の主任・于義雲は「楊秀玲と顧学敏(当時拘束された)に重刑を下さないと、打撃の効果がない」とプレッシャーをかけた。川匯区裁判所は楊さんに懲役10年の実刑判決を宣告した。家族が判決を不服として控訴したため、二審で7年の刑に変更した。楊さんは新郷女子刑務所に送られた。
河南省新郷女子刑務所で、楊さんは洗脳迫害を受け、ひどい重労働を強制され、睡眠を奪われ、独房に閉じ込められるなどの手段で苦しめられた。数年間、楊さんは最も汚い、疲れる仕事をさせられていた。
7年の刑期を終えて楊さんは家に帰ってきた。3年後の2016年3月、安徽省の実家に行った時、同郷の人たちに法輪功迫害の実態を伝えたとして再び連行され、懲役3年の実刑判決を宣告された。
さらに3年間の牢獄生活を経て出所した楊さんは、年を取り痩せて白髪になっていた。楊さんは子供に頼らず、バイトをして生活を維持していた。
今7月9日、楊さんは安徽省の実家に行っている間に、警官らに連行され、現在もなお拘禁されているという。