「自我」は束縛である
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文/林吉林

 【明慧日本2020年9月10日】修煉の過程は「自我」すなわち「利己」を手放す過程でもあります。個人的に修煉する中で、自分自身の自我を手放すことによってのみ、他人の事を優先的に考え自分を後回しにすることができます。そして、他人に親切で、忍耐強くなれるようになります。正法を修煉する中で、自我を手放すことで、師が法を正す事を手伝うことができ、衆生を済度することができるのです。

 しかし現実の中で、常人のときから、主観的で自己主張が強く、支配的で独りよがりな同修もいます。しかもそれに気付かずいい気になっています。修煉するときに内に向けて探すことを重視していないのです。自我を反省して取り除かず手放さないことによって、自己中心の自我が膨張し増え続け、ひどい場合は自分の心より魔が生じることになります。それは以下のような点に現れています。

 自我を強調する。「我」を強調し、独りよがりになり、自分の認識を真理と思い込みます。例えば、ある人は自分が正念を持っているので、携帯を持っていても安全だと強調していましたが、結局トラブルに巻き込まれてしまいました。また、自分の手柄を常に口にしてあちらこちらに言いまくり、人に話さないと気が済まない人がいて、結果的には警察に知られてしまいました。我々は自己を強調し、自分の認識が真理だと思うようになったとき、すでに「自我」の中に閉じ込められ、抜け出せなくなったのです。

 自我を実証する。交流するときは謙虚かつ穏やかではなく、いつも偉そうに人を見下し説教好きで、自分を表現したがっています。ある女性教師は口が達者ですが、いつも自分の現実離れの話をし、すでに法を逸脱しているのに、本人には自覚がないのです。彼女は何回も逮捕され、また何回も絶食して出てきて、その後、迫害によりこの世を去りました。ある男性教諭が交流する際は、よく大げさに話し、時には最初から最後まで話しっぱなしです。師父はこのように説かれておられます。「この人たちは法を伝え広めているかのように見えても、実質上は、彼ら自身を宣伝しています」[1]学法中の交流は平等で互いに相まっており、しかし一人だけの話では交流とは言えず、「個人の報告会」になります。それは大法には合わないのです。

 自我を貫ぬく。いつも勝手に決めつけて、聞く耳も持たず、一つの事を押し通します。自我を貫く人は何事に対しても法に基づき考えるのではなく、自分の言ったことが絶対的で、人の意見を受け入れないのです。ある同修は長期的に大きい資料拠点の形で資料を集中的に作っていました。また他の同修に「あなた達はもう作らなくてよい、私はなんでもできるから」とすべての資料作成をやろうとしています。彼女は資料を分配する際も事前にほかの同修とは相談せず、需要に応じた供給ではなく、自分の勝手な判断で分配していました。そのことは容易に同修にストレスを与えることになります。または資料拠点を至る所に作るという法理には合わないのです。その後、この同修は不当な判決を受けました。刑を終えて、出たあとも状態が良くありませんでした。師父は「自分の意見を固守してどうしても放さなければ、それは自我に対する執着です」[2]と説かれました。

 実際、これらの同修もみな素晴らしいところがあります。ある同修は不屈の精神を持ち、ある同修は勤勉でよく働き、ある同修はとても献身的です。しかし、みな自我が強すぎて、それによって、誤った道に踏み込んだり囚われたりと、本当に残念なのです。

 自我を強調すること、自我を実証すること、自我を貫くことは大体互いに補っています。自我を強調するため、自我を実証して、さらに自我を貫く必要があります。実質的には、自我を大法より前に置いてしまったのです。

 彼らの中にも、大法の本を読んで、三つのことをやる人もいます。しかし、自我が強いあまり、心の中で「天は二番で、自分が一番」となって、謙虚さも尊敬の念もないのです。そのため、学法しても頭に入らないので、着実に修煉することもなおさら不可能です。当然、多くの困難があります。師父は「真に学び真に修めてはじめて高次元の理を理解できるのです」[3] と仰いました。ある人は何度も自慢げに「誰々が自分に好意を持っているが、それに動じなかったとか、誰々が自分に告白したが、それにも応じなかったとか」そういう話をしました。それも自分に魅力があることを強調し、大法をとてもよく修めたと自己満足していました。この人ものちに捕らわれてしまいました。

 実は、自我を実証する中で、顕示心と歓喜心が養われるのです。師父は私達にこう教えてくださいました「顕示心にさらに歓喜心が加わると、魔の心に最も利用されやすいのです」[4]ある人は自分の身辺での迫害事例をまとめました。問題が発生した多くの人は自我が強く、安全性に欠如していたという事実が分かりました。自我が強すぎると法を乱し、歪んだ方向に悟っていく可能性があり、法を正すことを妨げる可能性や迫害される可能性もあって本当に恐ろしいのです。

 修煉する人間はこの自我を手放さないと、「利己」という鎖に縛られてしまいます。最初は自己満足になり、だんだん手柄を自慢し、そして自分が一番で、自分ほど優秀な人はいないと思い込むようになります。少しずつ正しい信念と正しい悟りから逸脱して、師父と大法から背離しました。結果、旧勢力がそれを利用して、この人は狙われるようになりました。

 一部の人が繰り返し嫌がらせを受け、酷く迫害されました。理由のひとつは意識的にまた無意識的に自我を実証していて、大法を実証していません。法を実証することは修煉であり、我を実証するのは常人です。師父は常人を守れません。そのため、自我を強調すればするほど危険が増します。自我が強いほど魔性的になり、より多くの悪い物を引き寄せ、旧勢力によって按排された道をたどることになります。さらに束縛が強くなり、抜け出せなくなります。

 師父が「皆さんはあることに気をつけるべきです。つまり、皆さんは法を実証しているのであって、自分自身を証明しているのではないということです。大法弟子の責任は法を実証することです。法を実証することも修煉です。修煉の中で他でもなく自我に対する執着を取り除くことであり、意識的にまたは無意識的に自分自身を証明することをかえって助長してしまうようなことをしてはいけません。法を実証することと修煉は自我を取り除く過程でもあります。これをやり遂げることができれば、本当の意味で自分自身を証明したことになります。常人のことを最終的に皆さんは放下しなければならず、常人の全ての執着を放下してはじめて常人から脱皮することができるからです」[5]と説かれました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「猛撃一掌」
 [2] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『世界法輪大法デーの説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「定論」
 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/9/1/411162.html)
 
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