明慧法会|三つの奇跡的な体験
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文/安徽省の大法弟子 馨蘭

 【明慧日本2020年9月26日】

 慈悲なる師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 前世紀の50年代中期(訳注:1950年代半ば)に、私は安徽省南部の山岳地帯にある非常に貧しい家に生まれました。環境が汚く、ぼろぼろの服を着て、1年の大半をはだしで過ごし、はく靴がありませんでした。幼少の私は夜に眠りに着くとすぐに自分が暗い穴の下の方に落ちていく感じがし、驚いて目を覚ました時に老母が薄暗いオイルランプの下でくつろいでいるのを見てやっと安心して眠りに着きました。中国共産党(以下、中共)の人為的災害によって引き起こされた三年大飢饉(訳注:1959年~1961年までの3年間に発生した大飢饉)で、私は空腹のため、やせて骨と皮ばかりになってしまいましたが奇跡的に生き残りました。修煉を始めるよう定められた一つの生命を、全て神が良い方向に準備してくださり、家庭の貧困によって私は苦をなめ業を消しただけでなく、私が今後修煉するのに必要な善良と忍耐の品格を確立しました。

 幼いころから私は学校に行って勉強することを切に望んでいましたが、「文化大革命」の影響で、私は16歳の年になってやっと正式に中学に入りました。授業料を支払い、食券を買うために、私は山に登って薬草を採り、川を下って石を拾って売り、苦難の中で私は困難に耐え、よく働きました。私は中学と高校を卒業し、優秀な成績で代用教員として月給28元で学校に留まり、両親と4人の兄と兄嫁の各家の生活を大幅に助けました。1977年に大学入試制度が復活し、その年の11月中旬に第1回目の試験が行なわれ、私は40日以上夜勉強をして努力して合格しました。

 私の結婚はうまくいかず、なすすべがない中で、私は幼い息子を連れて母子家庭の生活を選択しましたが、その時私は30歳前半でした。結婚の魔難を取り除くと、別の魔難がやって来て、私の職場は三線軍工(訳注:軍需産業や重工業)企業で、学校は国有企業の教育部門に属していました。私の職場である国有企業の子供たちのための学校の校長や位の低い公務員はみなコネによるか金で手に入れた役人で、このような「役人」は教え方を知らず、一日中食べたり飲んだりしてお金を儲けることだけでした。私は「役人」たちに食事をごちそうせず、また「役人」たちに贈り物をする金もなく、さらに私は正々堂々と行動する気骨を生まれつき具えており、私は職場で仕事を締め出されて攻撃され、一日中私は心が疲れて傷つきました。

 私が毎日必死に生きていた時、1996年、私は幸運にも法輪大法を修煉し始めました。その日、私は貴重な書籍の『轉法輪』を手に入れ、一気に読み終え、その日私は野菜を買って料理するのを忘れ、息子に残り物を食べさせ、自分は何も食べなくても空腹を感じませんでした。それから私は修煉の道を歩み、私は人生の苦難の根源がわかり、二度と常人社会の苦海に沈みたいと思わず、返本帰真し、大法の中で修煉し、師父について家に帰りたいと思い、気持ちは毎日楽しく、なぜなら私には師父がいらっしゃったからでした。「役人」たちが私をいじめることを恐れなくなり、父親の愛情のない私の息子に対するいじめっ子の差別といじめを恐れなくなり、簡単な食事もおいしかったのでした。

 1999年7月20日形勢が急変し、江沢民を首謀者とする人たちは、私たち「真・善・忍」によって良い人になる修煉者を残酷に攻撃し、猛吹雪が天地を覆い隠すかのように宇宙大法と偉大なる師父に対してでっち上げた虚言で中傷しました。巨難の中で私はさらに師父を堅く信じ、よい人になることは間違っておらず「真・善・忍」も間違っていませんでした。以下では私がしっかりと師父について衆生を救い済度したほんの一部をお話します。

 一足の毛皮の靴は私が中共包囲網から抜け出すのを助ける

 2000年の元旦の0時、新しい世紀が始まりました。中共が大法と師父を中傷し、大法弟子を迫害していた困難な時期に、同修たちは「この時私たちは倒れることはできず、法を実証しに出て行くべきだ」ということに一致して同意していました。私たちには省と市の繁華街で集団煉功していた60人以上の大法弟子がいました。この時まさに各主要ショッピングモールの商品価格が引き下げられ、潮のように買い物をする市民が雲を通して大空に響きわたる煉功音楽を遠くからでも聴くことができました。近づくと「法輪大法はすばらしい」という十数メートルの横断幕が見えました。今回私の煉功状態は特によく、法輪が回転して私はまるで浮き上がりそうな感じでした。

 私たちが1時間の動功を煉功し終わった時、私は目を開けてはじめて警官たちがすでに私たちを幾重にも取り囲んでいるのに気づき、リーダーの一人が声を張り上げて私たちに「あなたたちの中で誰がリーダーだ?」と叫びました。一人の女性同修が「リーダーはおらず、部下もいません!」と力強く高らかに答えました。警官は「立て、じっと立て、写真を撮れ」と叫びました。私のそばで立っていた男性同修が頭をあげて胸を張るのが見え、ラジカセを持って横断幕をかけている2人の男性が水のように穏やかに、泰山(訳注:山東省にある山、世界遺産)が高く大きくそびえるかのように動かないでいるのが見え、警察のカメラはサーチライトのように私たちすべての大法弟子の顔を横切っていきました。この時私は突然捕まるわけにはいかないことに気づきました。息子は夜明け前から自転車に乗って十数キロ離れた学校に行き高校で勉強しなければならず、毎日遅くなってから帰宅し、子供の勉強に影響を与えるわけにはいかず、私は家に帰らなければならなかったのでした!

 この念が浮かんだ途端、私は大股で中共の包囲網の外に歩いて行き、私が足にはいていたのは古い毛皮のハイヒールで、この古い毛皮の靴はいつも歩いているときはコツコツと響くのですが、私が警察に向かって行った時、毛皮の靴はまったく音がせず、両足が固いコンクリートの上を歩いているとは思えないような感じがし、まるで柔らかい絨毯の上を歩いているかのようで、私が警察の包囲網を抜け出した時、警官2人が体を横にして自発的に道を譲りました。私が包囲網から抜け出し、安全なところまで歩いて行った時、毛皮の靴はまたコツコツと音を立てました。明け方私は無事に家に帰りました。そのとき数十人の同修は留置場に連行され、その後ある同修は洗脳班に拘禁され、ある同修は労働教養に科されました。

 「このバスはあなたのために運転します」

 2008年の夏、私は真相資料と『共産党についての九つの論評』、真相DVDを持って数百キロ離れた故郷の大別山区(訳注:安徽省)に行きました。私は故郷の親戚が真相を理解し、救い済度されることを望んでいました。私が『共産党についての九つの論評』を同郷の人たちに渡した時「文化大革命」を経験した同郷の人たちは怖がって受け付けず、長期にわたって中共のデマに人心を惑わされ、暴力による統治は友人や親戚たちを怯えさせ私を泊めようとせず、私は「姿を見られない」という方法で真相(訳注:真相資料)をすべての世帯に配りました。

 あっという間に2009年の夏になり、私は再び真相資料や『共産党についての九つの論評』、DVDなどを用意し、やはり真相資料を配りに故郷へ行きました。約1時間バスに乗って長距離バスターミナルに着き、ちゃんと切符を買い、まさに安徽省南部方面に向かう長距離バスに乗る準備をしていたところ、突然警備員に止められ、肩にかけたカバンを下ろすように私に要求し、カバンをセキュリティーチェッカーに入れて検査しました。私はすぐに「このカバンをあなたたちに検査させるものか!」と意念で答えました。正念が出て来ると、セキュリティー検査官は突然笑みを浮かべ、強く私を押し、私はよろめいて転びそうになり、私はカバンを持ったままスムーズにセキュリティーチェックポイントを押し通され、わずか1分でこの関を乗り越えました。心の中でどれだけ師父のご加護に感激したでしょうか!

 数時間の長旅を経て、再び安徽省南部の故郷に到着し、故郷の家族に迷惑をかけないように考慮し、私は一時的に誰も住んでいない古い小屋に隠れ、小屋の裏の排水溝で待ち、周囲はすべて雑草と樹木に覆われていました。私は正念を発し、法を暗唱し『洪吟』を暗唱し、夜遅く人が静まる時間まで待ちました。大体夜の11時、私はカバンの中の真相資料や『共産党についての九つの論評』、DVD、真相のお守りなどを各世帯に配り始めました。すぐに真相資料を順調に配り終えました。私は「夜が明けて人々が扉を開ける時、真相資料を見ることができる」と思い、人々が真相を理解し、中共のデマの宣伝を二度と信じず、自分の未来のために厳粛な選択をすることを希望しました。

 その晩私は急いで歩いて戻るとき、山の中で夜に車を見つけるのは難しく、私一人が深夜に山間を歩いており、曲がりくねった道に沿って進みましたが、少しも恐れませんでした。師父が私のそばにいらっしゃることを私は深く信じており、高い山の上では時折野獣の咆哮が聞こえても、私は恐れず、野獣は大法弟子に近づかないと硬く信じ、時には地元の警察のパトカーに正面から遭遇することがありましたが、私たちはお互いに干渉せず、それぞれの道を行きました。大きい山の道は高低の起伏があり、私は両足がだんだん痛くなり、急ぐために、私は踏ん張りながら、心の中で「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」[1]という師父の法を暗唱しました。私は道を急ぎながら、絶えず正念を発しました。約30キロ歩き、大きな山間を出て、他の町に着き、私は地面に座って休み空が明るくなるのを待ちました。

 この日は空が白んだばかりの時に、私は苦労して地面から立ち上がりバスを探すと、ほんの数歩で省城(訳注:省の行政機関所在地)行きの大型バスが見え、運転手がすでにバスの入り口に立って待っていました。私はバスに乗り乗車賃を払い、座って眠る準備をしていると、突然車内で一人の若い男性が来て、男性はぷんぷんとよい匂いのする油条(訳注:コムギ粉を練って棒状にし、油で揚げたもの)を食べながら、私を見てにこにこしながら「ほら、あなたはすごい、こんなに大きなバスがあなた一人のために走っている」と言いました。その時私はとても疲れており、これは師父が常人の口を借りて私を励ましているのだと悟らず、慇懃無礼に私は「ありがとうございます! バスの前の方には観光客もいるでしょう」と答えました。そう言うとその人はいなくなり、大型バスは私一人だけを乗せて省城に向けて疾走し、私は傷んだ自分の両足を抱えながら座って眠りました。長いクラクションが鳴り私は熟睡から目覚め、バスが目的地に着きました。私が両目を開けて車内を見ると乗客でいっぱいでした。今回は故郷まで往復20時間で、体が少し疲れ、足に血豆ができ、10本の足の爪はすべてすり減って青くなりましたが、私の心の中は長いあいだ幸せでした。

 迫害を否定し「移管」に成功する

 2002年末、中共政府は「国有企業の子供学校と企業を分離し、子供学校と教職員は公立学校として移管する」といういわゆる「移管」の命令を発行しました。私たちの市政府は実施し、書類を発行し、その中に「懲罰を受けたことのある教師は移管させない」という条文がありました。この規定は法輪功修煉者の仕事を実質的に奪いました。これは完全に悪人を利用した旧勢力による大法弟子に対する迫害でした。

 師父は「理不尽に危害を加えられることに直面し、大法への迫害に直面して、わたしたちに強いられた不公平に直面するとき、これまでの個人修煉のようにすべてを受け入れてはなりません。それは大法弟子が今、法を正す時期にあるからです。もし、わたしたち個人の執着と間違いで現れた問題でなければ、それは必ず邪悪が妨害して悪事を働いているのです」[2]と説かれました。

 師父のお言葉は私の正念を確固とし、旧勢力の迫害への関与を断固として否定しました。学校の指導者は他人の災難を見てほくそ笑み「市政府の文章は変更できますか?」と言いました。

 私は学校の指導者のさまざまな障害を突破し、自転車に乗って各級の指導者に会いに行きました。まず私を連行した公安局の某課長に会い、私は「2000年の年末、あなたたちは私を連行し私を留置場に拘禁して拘束し、今日国有企業の学校は公立に移管しますが、市政府の文書の規定で懲罰を受けた教師は移管しません。私の仕事はなくなり、あなたたちは私のために解決しなければなりません」と言いました。公安局の課長は「市政府のこの文書はあなたたち法輪功に対してのものではありません」と言いました。私は「市政府の文書はそのように言っていないのですか」と言いました。課長は少し考えてから私に「私は留置場に保存されている公文書を引っ張り出して破棄しに行きます。それでいいですか?」と言いました。私は「だめです! 法輪功修煉者は真・善・忍の基準に従って行動し、私を拘留した文章を破棄することは真でないだけでなく、あなたたちが私を迫害した証拠をも破棄することになり、法輪功は遅かれ早かれいつか名誉を回復するでしょう」と断固として答えました。そこで課長は電話を取って「610弁公室」に電話し、課長はまず私が話した状況を説明し、続いて「この面倒はあなたたちのせいで、問題はあなたたちで解決してください」と言いました。相手は「○○先生の工場長は本当に素晴らしく、すでに状況を反映し、私たちはちょうど上級部門に内容の報告を書いているところです」と言いました。この公安課長はきっぱりと「あなたたちが今後再び私たちに法輪功を捕まえさせようとしても、私たちは行ないません」と言いました。

 私は自転車に乗って今度は「610弁公室」に会いに行きました。「610弁公室」の人員たちは私に会って緊張し、私に水を注いでくれ、私を座らせ、とても礼儀正しく話し、私が学生や父兄から深く愛されている資格のある教師であることを心の底から認め、さらに私の工場長および「610弁公室」の人員たちの上級部門あての報告を持ってきて私に見せてくれました。私は「私個人が良い人であるだけではなく、およそ法輪功を修煉する者はみな社会の中で本当に良い人です!」と言いました。工場長および「610弁公室」の人員たちは心から承認しました。

 続いて私は市政府に行き、市教育委員会が関連する指導者に会って意見を伝えました。教育を受け持っている市長は私が市長に会うのは難しく、私は真相を書いた手紙を書いて市長に送りました。市教育委員会の主任に会い、主任の態度はとてもよく、私の意見をまじめに聞き、最後に「必ず正しい解決をあなたのためにします」と答えました。

 その期間に私ははっきりした夢を見ました。汚れた側溝で、私は体全体が側溝の中にあり、汚れた側溝に落ちないようにするために、私は背中を側溝の片側にもたれかからせ、側溝のもう片側を両足でふんばり、一人の同修が傍らに立って慈悲深く私を見ているのが見えました。私は右手を伸ばし同修に引っ張り上げてもらおうとしましたが、同修は全然力が入らず、私を引っ張れず、突然反対側に立っていた30代の男性はスーツを着て、厳粛かつ慈悲深く私を見ており、私は左手を男性の方に伸ばし、男性が私を引っ張り上げてくれることを望みましたが、男性は私の手を引っ張らず、次の瞬間私のそばに立ち、私の服を肩から持ち上げ、私は助けられ、自分で力を出して立ち上がり、汚れた側溝から抜け出しました。目が覚めた後「師父が弟子を助けてくださったのだ」と悟り、この難をすぐに克服することができました。

 続いて私はさらに正念を持って再び市教育委員会に行くと、主任が面会し「大丈夫です、あなたの移管は問題ありません」と言いました。さらに私の仕事および人柄に対してきちんと評価しました。数日後、市政府が私の職場および関連する指導者に「○○工場で法輪功を修煉している○○教師を移管し、さらにできるだけ早く引継ぎの手続きをきちんと完了するように」と会議で通知しました。私の学校の教師たちはこの通知を聞き、感動して拍手を送りました。

 この期間、工場長や市内の同級生、引継ぎの処理を行う従業員がみな私のために上級部門に問題を報告し、法輪功を修煉する私が良い教師であることを一致して認めました。工場長は1週間の内に、日中に政府の各機関に行き、夜は事務所に戻って政府の各機関あてに報告を書き、法輪功を修煉する私が良い人であり、優れた教師であることを報告し、移管することを強く求めました。私の女友達の一人が後から私に「法輪功は本当に素晴らしい! 私は準備をするために一日休みを取り、あなたの移管の件のために、上司たちに会い、市教育委員会の事務所に入った途端、私が会わなければならない上司が会議を開くかのように続々とやって来て、もともと一日の時間でも説明が難しいことを、結局2時間かからずにすべて説明しました」と言いました。

 私が1996年10月から法輪大法の修煉を始めてから23年間の修煉の話はとても多く、同修と交流したいこともたくさんあります。修煉の道は平坦ではありませんが、師父のご加護があり、正念が足りていれば、越えられない難関はなく、私は自分が必ず最後まで師父について行くことができると固く信じています。

 ある時同修が私に「どの執着心を取り除くのが最も難しいですか」と聞き、私は「恨む心です」と言いました。私はいつも私に対して魔難を作る人を恨みました。師父は弟子に「修煉者には敵はおらず」[3]と説かれました。大法を修煉している私は、自我を放下しなければならず、私に魔難を作る人たちを大切にすべきであり、私に魔難を作る人たちに大法弟子の善良を感じさせなければなりません。私は必ず師父の教えに従い、恨む心を修めて取り除かなければなりません。

 偉大なる師父に安心していただきたいのです。弟子である私はいつも師父の弟子であり、永遠に師父の弟子であり、師父が弟子に与えられた三つのことをしっかり行ない、精進し、さらに精進いたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「正念正行」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「法を正すことと修煉」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「世間に向かって輪を回す」

 (明慧ネット第16回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/4/395389.html)
 
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